1329_聖日という聖別された日に何度も救われた

可処分時間の大部分を仕事や家庭のために使う

クリスチャンは日曜日は聖日や主日と言ったりします。これは、月曜日から土曜日までの6日間とは全く違う一日として聖別しているからです。もちろん、月曜日から土曜日もクリスチャンは日々、聖別して主のために生きるべきです。しかし、実生活では、1日の可処分時間の大部分を仕事や家庭のために使わざるを得ません。

ある人は、1日の初めの朝の黄金の時間を主のために捧げて聖別している人もいると思いますが、それであっても1日の大部分は生きるために使わないといけないのが実情です。

先に主のために時間を取っておく

しかし、聖日は全く違います。すべてのことを横におき、先に主のために時間を取っておくのです。そして、それは決してわずかな時間だけではありません。礼拝や奉仕や交わりなど数時間単位で主との時間を過ごすことができるのです。

僕は年を取ってから、この聖日という聖別された日に何度も救われたように思います。その理由としては、聖日によって断ち切っていただかないと僕は間違った方向に流されていただろうと思うことが少なくなかったからです。

過ぎたるは猶及ばざるが如し

具体的に書きます。例えば、昔はゲームや映画やドラマなどを観ていましたが、もし、聖日がなければ日曜日もずっとその世界の中に閉じこもっていたと思います。また、仕事で忙しかったり、ある本にはまってしまって寝ても覚めても本というような状態になったとしても、聖日は必ずそういったものから離れて断ち切ることができます。

これは主が与えてくださった大きな恵みだと思います。人間は自分の好きなこと、やりたいことを求めるものです。そして、過ぎたるは猶及ばざるが如しというように、なんでもやりすぎはよくないのです。

縛られることがないように

主は人間がそういった弱い存在であることをご存じで、そういったものに縛られることがないように聖日を定めてくださったのだと思っています。僕自身は今でも、あることに頭がいっぱいになったりすることがありますが、聖日だけはそれらのことから解放されるので、感謝だと思っています。

僕が子供の頃は親に連れて行かれていたので、面倒だなとか行きたくないなと思うことがなかったわけではありません。しかし、その習慣が今では僕を救ってくれているのです。

日常から切り離され、この世のことから断ち切られ、主に集中することができる1日ほど幸いな日はありません。

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