クリスチャンごっこ
最近思うことがあります。それは結局僕がやっていることは「クリスチャンごっこ」に過ぎないのではないか?ということです。もちろん、僕にとってイエス様の十字架は本物であり、魂の救いは知識ではなく霊的な深い領域で実現した事実であると確信しています。
しかし、自分の日々の歩みと聖書を照らし合わせてみると、今自分が信仰を使ってやってることはあまりにもくだらないことだと思うようになったのです。
僕には全く響いてこない
「迫害する者のために祈れ」や「敵を愛しなさい」という言葉は僕には全く響いてきません。なぜなら、僕は迫害もされていないし、敵という敵もいないからです。また、キリストの足跡に従うといっても、イエス様の悲しみや痛みをどれほど知っているでしょうか。
僕も含めてクリスチャンはきっとイエス様に従うとは、つまり人々に迫害され、人に裏切られ、肉体的にも精神的にも霊的にも痛みを負うことであることを忘れてしまっているように思います。その中にあって、福音宣教がなされるのだと思います。一方、僕は恵み、祝福、憐れみ、愛ばかり追求していて、結局、キリストの悲しみを共にすることを拒否しているのではないかと思いました。
キリストの苦しみに与る
キリストの苦しみに与るということに関しては聖書に多くの箇所があります。
つまり、あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。
ピリピ人への手紙 1:29
むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど、喜ぶがよい。それは、キリストの栄光が現れる際に、よろこびにあふれるためである。
ペテロⅠ4:13
もし子であれば、相続人でもある。神の相続人であって、キリストと栄光を共にするために苦難をも共にしている以上、キリストと共同の相続人なのである。
ローマ人への手紙 8:17
永遠を望み見て
苦しみ、痛みは肉が反射的に避けようとするものです。それは当然です。なぜなら、苦しいのは自分だからです。悲しいのは自分だからです。誰でも自分が大切だから自分が苦しんだり悲しんだりすることに対しては激しく抵抗するのです。それは肉の性質であり、自然な反応です。
しかし、霊は違います。キリストの苦しみにあずかることすら、いや「苦しみにあずかることこそ」喜びます。それは喜びが満ち溢れるためです。正直、この逆説を僕はまだまだ理解できていません。また体験もできていません。
しかし、この地上では寄留者であり、旅人であるならば、永遠を望み見て、今のこの一点における苦しみを受ける選択はキリストにあってできるのだと思います。主が命を捨てるほどに愛してくださったのだからそう望むのは当然です。