アスリートの方
先日、元アスリートの方と話をする機会があり、他人事ではないと思わされたことがありました。スポーツ選手というのはおおよそ中学、高校、大学とスポーツ一筋でされている方が多く、大学生の時に選択を迫られるそうです。プロを目指してこのままスポーツ全振りでいくのか、それとも、早い段階で就職活動をするのか?と。
最大の問題は、プロを目指すという選択をした方がプロになれなかった時だそうです。親や周りの期待を背負ってプロを目指してきたが、振り返ってみるとスポーツ以外に何もしてこなかったという現実を突きつけられるそうです。
再起を図れる環境
それはプロになれなかった方だけでなく、プロだったけれど怪我などの理由で引退を余儀なくされた方も同じだそうです。もちろん、知名度がある方はそれだけで集客ができるので、引退後も問題ありません。ただ、以前プロだったけれども知名度はそれほど高くない方、あるいはプロを挫折した方が再起を図れるような環境が整っていないというのです。
厳しい現実として、有名大学を卒業している方は再起を図れる可能性が高いのですが、スポーツは強いけれども大学の偏差値が低いとなるとなかなかシビアだそうです。
大学生の時
今から書くことは教会によって大きく異なると思うのですが、僕が経験したことを書きます。以前は教会の奉仕に全振りすることが神様に喜ばれることと思っていました。大学生活のほとんどの時間を教会の奉仕に捧げました。
奉仕全振りだったので、大学3回生になって就職活動を始めるまで真剣に自分のキャリアというものを考えてこなかったのです。いわゆる、ガクチカ(学生の頃に力を入れたこと)は教会の奉仕だけだったのです。真面目に大学のキャリアセンターの方に、「教会で子供向けの活動をしていました。」と伝えたら、「こども向けは弱いんだよね~」と言われて衝撃を受けたのです。
人を気にしていた時期
当時は僕はまだ未熟だったので、あらゆる方面から僕に奉仕を振ってきた人たちが信じられなくなってしまいました。誰も僕の将来のキャリアのことを考えて奉仕を振ることなんてなかったからです。もちろん、今ではそれが当たり前だとわかります。なぜなら、自分のキャリアは自分で考えるべきものだからです。
しかし当時は、よく言えば従順に、悪く言えば、言われるがままに奉仕をしていました。それこそが神様に喜ばれることと信じていたのです。
恵みによってできるか
たぶん、それからだったと思います。周りの反応や周りのためではなくて、きちんと、神様と向き合って、神様とキャリアを考えるようになりました。従順とは、人からゆわれたことを全部することではなく、神様が自分に語っておられることに素直に従うことです。
人とて、完璧じゃありません。人からお願いされてすぐに「はい、します」じゃなくて、まず、持って帰って祈って神様と相談して主の恵みにあってできそうであれば、従うというスタイルが今はしっくりきています。
主は言われる、わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている。それは災を与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり、あなたがたに将来を与え、希望を与えようとするものである。
エレミヤ29:11