とりなしの祈り
最近はとりなしの祈りに関して学ばされています。どこの教会にも週報などに祈祷課題というものが記載されています。またそれだけでなくより個人的な内容に関して祈る課題のリストがあったりします。もちろん、それだけではありません。多くの場合、自分の周りの人に関しては自分しか祈る人がいないことがほとんどです。
親しい友人・知人、職場の同僚、パートナー企業、取引先の方など、日本のクリスチャン人口が1%以下であることを考えると、その人たちのために祈る人は「自分」しかいないというのは必然のようにも思えます。
主に自分を明け渡した者
僕はとりなしの祈りに関してまだまだ訓練中でまだよくわかっていないことが多いです。しかし、取り組む中で少しずつわかってきたことがあるのでそのことを書こうと思います。
一つ目は、とりなしの祈りは、自分から解放されていないとできないということです。これは霊的な領域のことです。人間は生まれながらすべからず自己中心的です。資質や個性によって程度の差はあると思いますが、人は誰でも自分が大切だと思っています。「自分なんか嫌いだ」と思っていても、心の底では実は本当に自分を嫌っていないという場合も多いと思います。
よって、少なくとも僕は、とりなしの祈りはキリストの十字架の血潮によって罪が赦されて、自分を主に明け渡した者がはじめてできるものと捉えています。僕はこのように書いていますが、自身がその状態にあるとは思いません。しかし、そう認識するからこそ、もっと自分自身から解放されて主に自分を明け渡したいと祈っています。
目線を外に向けると
二つ目は、とりなしの祈りは、目を外に向けさせるということです。これは理性における領域のことです。たとえば、個人のとりなしの祈りの課題を見ると、大変な状況に置かれている人が多くいることに気づかされます。また自分の友人・知人の状況はどうでしょうか?大変な中にいる人はいないでしょうか?
一度、目線を外に向けると、「自分はなんでこんな大変なんだ」とか「自分だけが苦しい」とか、自分だけを見て内側を見て悶々とすることもなくなります。むしろ、自分なんかよりももっと大変な状況にいる人がいるからそのために祈ろうと思えます。
彼らのためにとりなしておられる
僕はまだとりなしの祈りの「と」もわかっていない者です。しかし、イエス様が天でとりなしの祈りをしてくださっているようにイエス様にならってとりなしの祈りをする者へと変えられたいと思っています。
そこでまた、彼は、いつも生きていて彼らのためにとりなしておられるので、彼によって神に来る人々を、いつも救うことができるのである。
ヘブル人への手紙 7:25