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ユダの王様について
歴代志下はユダ王国の王に関して非常に詳細が記載されています。イスラエルはユダ王国とイスラエルに分裂しましたが、ユダ王国のほうが非常にいい王様が続きます。ソロモン以降、レハベアム、アビヤ、アサ、ヨシャパテと続いていきますが、どの王も主の心を求めたと記載があります。一方調子が良くなるにつれて主を求めなくなったことが記載されています。
例えばレハベアムに関してはこのように記載されています。
レハベアムはその国が堅く立ち、強くなるに及んで、主のおきてを捨てた。イスラエルも皆彼にならった。
歴代志12:1
アビヤに関してはネガティブな記載はなく、アサに関してはこのように記載されています。
ただし高き所はイスラエルから除かなかったが、アサの心は一生の間、正しかった。
歴代志15:17
ヨシャパテに関してはこのように書かれています。
ヨシャパテは父アサの道を歩んでそれを離れず、主の目に正しいと見られることを行った。しかし高き所は除かず、また民はその先祖の神に心を傾けなかった。
歴代志20:32-33
完璧な王はいなかった
これらの記述を見て思うのがたとえ主の目に正しいとみられることを行っていたとしても、それを完全に行える者はいなかったということです。彼らが王として生きていけたのは、ただ主を求める、主に頼る生き方をしたからであって、完全に律法を守ることはできていなかったようです。
これは現代を生きるクリスチャンも同じです。僕自身気をつけないといけないと思っているのは、神様が与えてくださる義ではなくて、自分自身の義によって自分を判断する危険性があるということです。
自分による義は不完全
つまり、「自分は主の目に正しいことができている」と思うことがあったとしても、それはそう思っているだけであって完全には行うことができていないということです。たとえ、毎週教会に行ったり、什一献金をしたり、奉仕したり、賛美していたとしても、日常生活において、心の中で誰かに腹を立ててその気持ちをそのままにしているならば、それは律法の一点一画を犯したのと同じことだからです。
ユダの王が王位を確立できたのは、ただただ彼らが主を求める生き方をしたというこの一点につきます。彼らは重要な局面でいつも主を求めることをしていました。
十字架による義だけが必要
僕はこれらのことを書いて、完全な王はいなかった。だからも僕も完全でなくてもいいのだ。安心だ。と言いたいわけではありません。むしろ、ますます自分にはイエス様の十字架が必要だと思わされています。今は旧約聖書の時代には記述がなかったイエス・キリストについて記述が新約聖書にあります。彼個をが信仰の導き手であり、その完成者であるので、ユダの王たちが主を求めたようにイエス様を求めて生きていきたいです。