1700_「豊かな心の人生」とはいったいどのような状態であるのか?

豊かな心の人生とは?

このブログでは「聖書の言で人生を巡航速度まで上げ続ける。イエス・キリストと歩む逓増する豊かな心の人生。」を掲げています。これが僕が毎日言語化し、ブログを書き、祈りに関して試行錯誤し、暗唱聖句をし、何とかにして肉を無力化し、霊的に主に喜ばれる生活がしたいと思っている理由です。

しかし、この目指すところは漠然としていたところがありました。それは「豊かな心の人生」とはいったいどのような状態であるのか?という点です。僕はなんとなく、主と共に主の愛に満たされて平安な心で生きるくらいにしか思っていなかったのです。

主の愛を受けるのは簡単

しかし、最近、わかったことがあります。「豊かな心の人生」とは、主の愛によって人を愛せる状態だということです。誤解を恐れずに書けば、主の愛を受けるだけでは不十分です。それは途方もない大きな恵みですが、人はそれを簡単に手放してしまうからです。

主の愛を受けるのは簡単です。しかし、その愛で人を愛するのは容易なことではありません。それには主の愛に満たされることを前提としますが、主の御心を深く知ること、さらに、自身が能動的に人を愛せるようになりたいとう意思が必要になるからです。

恐れが心の中にある

僕は日々、生きる中で自身の心に泥水が湧いて出てきていることに嫌悪感を抱いています。それは、イライラしたり、不寛容な思いになるだけではなく、さらにそれを行動や言動で表したいという衝動すら起こってくることがあるからです。

ほとん行動や言動であらわすことはありません。自制心が働いているからです。しかし、もし、いつか抑えられなくなって外部に表出していしまうのではないかという恐れが心の中にあるのです。僕は本当に心が貧しい人間です。

主との心で愛せる

こういった日々の経験を通して、僕は「もしイエス様の愛で人を愛せるようになったら、これらすべてのことは解決する」と思うようになりました。自身に何が起きても、何があっても、状況や環境がどうであっても、いつもイエス様の愛で人を愛せるようになりたいと思ったのです。

しかし、それは超絶高いハードルであり、肉における自分の首を絞めることであり、聖人を目指すようなことであり、友のために命を捨てるという選択すらする畏れ多いものです。それでも僕はそこに立ってみたいと思うようになりました。

なぜなら、その愛こそが僕を完全に変えると思ったからです。受けるだけではなく本当に主の愛で愛せるようになりたいです。主と同じ心で人を愛せるようになりたいです。

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