0268_神は乗り越えられる試練しか与えないは間違い

神のゆるしがなければ

聖書にこのような言葉があります。これは福音書でイエス・キリストが語られた言葉です。

二羽のすずめは一アサリオンで売られているではないか。しかもあなたがたの父の許しがなければ、その一羽も地に落ちることはない。
マタイ10:29

雀はそれほど価値がないにもかかわらず、その小さな命は天の父の手に握られています。そして神のゆるしがなければ、死ぬこともない、つまり、死ぬときは神のよしとされた時だけなのです。たとい、キリストの救いにあずかったとしても、相変わらず、悩みも苦労も悲しみもあります。ただし、救われる前との最大の違いは、そのただ中にあって、イエス・キリストが共にいてくださること、そして、実際の問題に介入してくださることだと思います。

そして、なによりも、すべて身の周りで起きることは、雀のように、すべて神にゆるしの中で起きていると信じることができるからです。

理由を知っている神を知っている

日常生活をしていると様々な出来事が起こってきます。学業、仕事、地域社会、教会、プライベートなどにおいて、自分の影響の範囲内にあって自分の失敗などによって起きるもの、あるいは、自分の影響の範囲外のことで、自分ではどうしようもできないことなどです。ある時は、自分が情けなく感じることもあるでしょうし、なぜ?どうして?と思うこともあるかもしれません。しかし、聖書の教えは、神により頼んで生きる者が身の回りで起きることは、すべて神のゆるしの中で起きているのです。

もしかしたら、ある人は、「じゃあ地球上で起きる天災、人災はすべて神がゆるしておられるから起きるのか?なんという神だ。けしからん」とおっしゃるかもしれません。しかし、神がすべてを治めておられ、神のゆるしがなければ雀一羽も死なないように、神のゆるしの中で起きていると信じているのです。神の壮大なご計画は拳2つほどの大きさの脳しかもっていない人間にはわかりません。人間はその理由を知りたいと思いますが、理由を知っている神様を知っていることが幸いなのです。

試練について

一時期、複数の著名人が「神は乗り越えられる試練しか人に与えない」というようなことを言っていたそうなのですが、これは間違いです。イエス・キリストを知らないと助けを求める対象を知らないままです。神に助けを求める時、神様はそれに応えて助けてくださり乗り越えさせてくださるのです。もし、今自分が直面しているすべての困難、苦労、悲しみが乗り越えられる試練だと思ってしまうなら、自分を追い込む可能性があり、非常に危険です。

乗り越えずに一歩引くこと、別の道を行くなどの判断も時にはしなければならないでしょう。もちろん、神に助けを求めて、その判断自体を仰ぐのです。僕は新卒で入社した会社で非常に大きな困難を覚えていました。もし、それを無理に乗り越えようとしていたら、精神的に壊滅していたと思います。しかし、あえて乗り越えることをせずに、身を引く決断をしました。今となっては早くその判断をしていてよかったと思っています。

神は助けを求める者に、乗り越える力、あるいは、正しい意思決定ができるように知識・知恵を与えてくださる。それが正しいと思います。

あなたがたのうち、知恵に不足している者があれば、その人は、とがめもせずに惜しみなくすべての人に与える神に、願い求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。
ヤコブ1:5