クリスチャンがやってはいけないこと
キリスト教だから〇〇したらだめなんでしょ?というようなことを聞くことがあります。〇〇には例えば、「お酒を飲んだら…」や「ギャンブルしたら…」などの用語が入るかもしれません。
確かにキリスト教の教えのもとになっている律法には十戒を含めて「〇〇してはならない」との記載があります。これらは旧約聖書にかかれているものですが、聖書には明確に律法の一点一画も消え去ることはないと書かれているので、守るべきものです。
律法は良いものです。なぜなら、律法によって、盗むなと教えられないと盗むことが悪いことだと知ることができなかったからです。律法は良い物であり、聖なるものです。
クリスチャンがやりたくないこと
しかし、イエス・キリストが十字架にかかられて、復活されてからの新しい契約の時代(新約)には、心に律法を刻み込んで頂けるようになりました。
それはつまり、聖書に「〇〇したらだめだから」というので、守るのではなく、自分が自発的にそれをしたくないという思いを心に与えてくださるものなのです。
だから、もしこういった質問がある場合は、まだイエス・キリストの聖さにあずかっておらず、心に律法が刻みこまれていないかもしれません。クリスチャンはお酒を飲んだらだめなのですか?クリスチャンは煙草を吸ったらだめなのですか?クリスチャンは婚前交渉したらだめなのですか?
未熟な自分
僕自身、まだまだイエス・キリストの聖さに与れていません。なぜなら、インスタグラムに表示される漫画の広告の続きがとっても気になるからです。広告を横スクロールしてみてみると、絶妙なところで終わっており、とっても続きが気になってしまうのです。
聖書にはこのように記載されています。
世と世にあるものとを、愛してはいけない。もし、世を愛する者があれば、父の愛は彼のうちにない。すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、持ち物の誇は、父から出たものではなく、世から出たものである。
ヨハネⅠ2:15-16
つまり、僕はこの世の目の欲にひかれてしまっているのです。それは、僕がまだキリストご自身だけを自分の楽しみとしていないから、世俗的な楽しみを求めてしまっているのだと思います。なぜなら、イエス・キリストを得ることはすべてを得ることであり、そこにすべての満たしと、楽しみと、喜びがあるからです。
信仰を働かせる
もし、そんなストイックな生き方はつまらないだろうと思うのであれば、きっとキリストにある永遠の喜びと楽しみにはあずかれないでしょう。
なぜなら、イエス・キリストにすべての満たしがあることを信じて、信仰によってイエス様を求める者に初めて与えられるものだからです。だから、今日も明日もイエス様の喜びや楽しみに与れるようご自身を求めていきます。