0887_CSの奉仕に携わって5ヶ月経過

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5ヶ月くらい経って

今通っている教会で今年からCSを担当することになって、ようやく少しずつ手応えを感じることができるようになってきました。今年のはじめに1回目の説教をした時はこどもたちがどのくらいの知識を持っているかもしらないし、なにより僕とこどもたちとの関係もほぼゼロだったので、本当に手探りの状態でした。

0765_約10年振りくらいにCSの説教をして

0807_CSの説教準備で教えられたこと

CSの説教とは?

僕が考える説教とは、大前提として全人格的なものであるということです。つまり、説教とは指定された教材をもとに知識を語るのではなく、まずは語るその人がその御言と向き合い、時には葛藤しながらも神様から教えられたことを語るものだと理解しています。だからその人にしか語れないことがあるのです。

僕にとってそれは畏れのあるものです。なぜなら、もし僕自身が御言と向き合っていないなら、表面だけのぺらっぺらな説教になってしまう危険性があるからです。

また、説教とは授業やセミナーなどとは違い、ただ単に聖書の知識の伝達するのが目的ではありません。説教とは神様がそこに集う人たちに語りたいことを説教者を通して語られるのです。だから、それを祈り求めることも大前提になります。もちろん、手を一切抜かない準備も必要です。

僕が経験したCSにあったもの

もちろん、説教には知識の伝達もあります。しかし、それよりも大事なのはそこに神様の臨在があることです。臨在というとすごく大げさなことのように思えますが、その場所が神様の愛で溢れていて、神様が褒め称えられている場所だということです。

僕は生まれた頃から教会に行っていました。成長するにつれてCSが嫌だと思うこともありましたが、総じて、CSには特別な祝福や恵みがあることを体験させてもらっていました。なにかわからないけど、心に喜びがある。なぜかわからないけど、世の中にはない楽しみがここにあるというのを体験していました。それこそが、神様の臨在だったのだと今ではわかります。

すべては教師にかかっている

当時なぜ僕がそういった体験ができていたかというと、きっとその当時の先生たちが本当に僕を愛していて、何より祈りの器だったからだと思います。だからも僕自身がそのように育てられたように、子ども一人ひとりのために祈り、神様の臨在を求め、神様の愛と栄光に満ちるようなCSにしていきたいと思っています。

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