律法主義はキリスト教にあらず
キリスト教信仰において律法主義に生きているか?あるいは、キリストの恵みによって生きているか?は信仰の根幹にかかわるところであり、ここが間違ってしまうと自身の信仰がとんでもない方向にいってしまう可能性があります。僕自身はいつでも律法主義になる弱さを持っていまます。また過去の一時期律法主義に陥ってしまったことがあります。
律法主義とは簡単に言えば自己満足の信仰です。神様が「あなたはキリストにあって義なる存在だ」というところに立たずに「自分はよくやっている」と自身の行いに立ってしまうのです。だからこれはキリスト教信仰でもなんでもないのです。ただの自分教なのです。
だから律法主義とはクリスチャンにとって文字通り死活問題です。キリストの恵みの中を生きることができれば命があります。しかし、そうでなければ命はないのです。
他人から律法主義と非難されること
これを前提とした上で、今日は他人から律法主義と非難されることについて書きたいと思います。
人によって信仰生活の温度感は違うものです。ある人は週に数回の断食して祈られる方がおられます。またある人は世俗的なコンテンツを一切絶って神様を求めるというような生活をされている方もおられます。もちろん、そういった方たちが自身の個人的な信仰生活を一般化して誰かに要求する場合、律法主義になるかもしれません。
しかし、キリストの恵みによってそれらのことを喜んでしているにもかかわらず、他人が「あれは律法主義的だ」と非難する人は少なくないと思うのです。今は全く見ないですが、SNSとかに非常に多いです。
自身の体験
自身の体験を書きます。僕は結婚を決める前に祈祷院に行って1泊2日の断食祈祷をしました。それに対して「ペンテコステ派の人は断食祈祷とか多いよね。」といいう何ともいえないニュアンスの言葉を受けたことがあるのです。
僕は神様を求める一心で、一時的にでも世俗から離れて主に近づき、自身の霊性を研ぎ澄ませていただき主の御心が知りたいという強い願いがあっただけでした。なので、〇〇派がどうのこうのとか、さらに言えば、今更断食祈祷などやっているのか、のようなニュアンスがあったのです。
神様との個人的な関係
結局信仰とは神様との個人的な関係にいきつきます。誰でも大切な人のためには何をしてでも取り組みたいと思うものです。誰でも恋人や家族や子供のためには何をしてでも取り組みたいと願うものでしょう。もし、それが神様なら、なお畏れの心をもって臨んで当然だと思います。
僕はこれまで1日に最低1時間祈ることにチャレンジしたり、毎朝早く起きて主に近づくチャレンジをしたり、意図的にスマホを触らないようにしたりなど、試行錯誤を続けてきました。ある人がそれを見たら律法主義のように見えるかもしれません。しかし、それは決して「やらないといけない」ではなくて、「やりたく」てやっているだけなのです。
自身が律法主義に陥っているか否かについて、御霊に教えていただけるように求める必要がありますが、他人のことはその人とイエス様との関係のことなので僕自身どうのこうの言わないように気を付けたいと思います。