1224_花婿の友人でありたい

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正しい位置

昨日は、バプテスマのヨハネについて書きました。彼はイエス様に女の生んだものの中で最も偉大な人物だと評された一方で、しるしは何一つ行っていなかったという意外性について書きました。今日は僕自身がバプテスマのヨハネが僕を正しい位置にいつも戻してくれるということについて書きたいと思います。

人が神様との関係において正しい位置に立ちたいと思うならば、悔い改めは避けられません。悔い改めなしに救いはありません。また悔い改めなしに自身が造り変えられることもありません。悔い改めとは救いを受け取るためのすべてのすべてなのです。

悔い改めとは

また悔い改めとはただたんに神様の前に反省することじゃありません。またごめんなさいと謝るだけのことでもありません。悔い改めとは神様に背を向けていた方向を180度回転させることであり、神様のほうを向きなおすということです。

また、一時的に神様の方向を向いて謝るだけじゃなくて、そこから神様と一緒に歩んでいくという決心をすることです。それが完全な悔い改めだと理解しています。なぜなら、一時的に神様の方向を向いても、人はすぐに神様に背を向けて自分のしたいようにやりたいように生きてしまうからです。

「改めて」いなかった

最近、ずっとこのブログで書いていますが、僕は長い間、一瞬神様の方を向いてはまた背を向け、また神様の方を見てはまた背を向けというようなことを繰り返してきました。それは完全な悔い改めじゃなかったのです。自分が悔い改めだと思っていたことは、実は「悔い」だけであって「改めて」いなかったのです。

その理由としては、僕は自分の力で改めようとしていたからです。僕は神様の前に無力だと体験するまでは自分で改めて自分の義を貫き通そうと思っていたのです。もちろん、今も日々、まだまだ悔い改めないといけないことがありますが、主から目を離さないように日々緊張感をもって生きています。

荒野で呼ばわる声

だからこそ、悔い改めを説いたバプテスマはいつも僕を正しい位置に戻してくれます。荒野で呼ばわる声はこの21世紀に生きる僕たちの魂にも届いているのです。そして、バプテスマのヨハネは徹底してへりくだりの道を歩み続けました。この御言が僕をさらに正しい位置にもどします。

花嫁をもつ者は花婿である。花婿の友人は立って彼の声を聞き、その声を聞いて大いに喜ぶ。こうして、この喜びはわたしに満ち足りている。彼は必ず栄え、わたしは衰える。
ヨハネ 3:29-30

再臨に備えるという意味では僕はキリストの花嫁でありますが、この地上でイエス様に仕える上では、僕もバプテスマのヨハネのように花嫁ではなく、花婿の友人でありたいです。

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