1666_教会のこども向けのイベントで失敗したと思った時

子供向けのイベント

今日は教会の子供向けのイベントで「お祭り」なるものがありました。当日は地元のお祭りや学校の参観日などイベントが重なってしまっていたため、参加者がいるかどうかとても不安でした。しかし、主がこどもたちを送ってくださって感謝しました。

今年、僕の教会では中学生に進級したこどもが多く、レギュラーメンバーが限られています。そのため、何かイベントをするにも内部メンバーからの集客は見込めません。必然的に外部からの参加者にアプローチする必要があります。

慢心

幸いなことに教会がある地域は世帯の新陳代謝が起こっており、子育て世帯が多く小学校もマンモス校になっています。さらに、昭和のひと昔前の価値観も残っており「宗教は危ない」という警戒感むき出しの偏見も比較的少なく、親御さんもこどもを教会に送りだしてくださいます。ただ、教会や教会員の家の前にイベントのポスターを張り出しておくだけでかなりの集客が見込めるのです。

そういった中でのイベントだったのですが今回は教えられることが多くありました。まず、僕は上記のような地の利があることに慢心しきっていました。イベントをして集客をして楽しんでもらえればそれでいいとは言わなくても、心の中ではそう思ってしまっていたのです。

聖霊の導きや助けがないよう

そういった思いからも、今回のイベントは霊的な戦いという意味では負けてしまったと思っています。それは賛美をリードしても祈っても聖霊の導きや助けがないように思ったからです。ないというのは、奉仕する僕の心に平安や救霊の情熱、イエス様の愛がなかったということです。

もちろん、ここで気を付けないといけないことがあります。それは「神様がおられる、おられないはこのように感じるものではない」ということです。「感じる」に主眼を置くと感覚主義になります。主観になります。それは僕の初期のペンテコステ信仰と同じです。だから、状況や環境がどうであれ御言を信じ御言に従うということこそが大事です。

主は人を通して働かれる

しかし、矛盾になりますが、聖霊の導きを感じることも無視することはできません。なぜなら、今も生きているイエス様が共におられるのに自分の霊が無反応であるわけがないということです。各人に主がともにおられるかどうかはそれぞれの主観ですが、それは必ず外に現れるものだからです。それは、表情、声、言葉、行動に現れます。主は人を通して働かれるからそうなるのは当然です。

今回僕は奉仕をする中で切り離されて自分の力でやってしまったと思います。だから主の前に悔い改めないといけないと思いました。この地域には多くのこどもがいます。主から「あなたは本当にこの地域のこどもが救われてほしいと願っているのか?重荷があるのか?私は誰を遣わせばいのか?」と問われた気がしました。

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