レーナ・マリアさん
先日、教会の子どもたちを引率してレーナ・マリアさんのコンサートに行きました。このコンサートがあると聞いた時、とても懐かしい気持ちになりました。なぜなら、僕がまだ中学生くらい?の時に母がレーナ・マリアさんの賛美のCDを聴いたり書籍を読んでいたりしていたからです。
レーナ・マリアさんは生まれた時から肩から両腕がありません。また片足は半分の長さしかないのです。そのような大きなハンディをもっていても彼女の目はいつも輝いていいました。その瞳の奥に人々はキリストを見出し、勇気をもらっているのだと思います。
しかし、当時僕はまともな信仰をもっていなかったのでレーナ・マリアに関心はほとんどありませんでした。ただ「大変な中にあってもイエス様と共に生きている信仰の人」というくらいの理解しかなかったのです。
神の器としてステージに立つということ
しかし、今回のコンサートで彼女が人を引きつけてやまない理由が本当にわかりました。一つは彼女のキャラクターです。彼女の表情や歌声から嘘偽りのない真実な心を見出しました。まず、キリスト教会において一般的に、神の器としてステージに立つということは霊的な戦いそのものです。自分が出るのか?目立ちたいのか?人の評価はどうか?などのキリストに栄光を帰さないものが人の中には必ず存在するからです。
たとえ心の中で自分はそんなこと思っていないと思っていても人は無自覚に心の奥底でそういった気持ちをもってしまう弱さを誰でも持っていると思います。だから、ステージに立つときにそういった無自覚の領域にある自分というものに向き合わざるを得なくなります。
心の中が透明になっても
しかし、彼女の場合はそういったものが全くないかのような印象を受けました。たとえ、心の中が透明になって誰かに見られることになっても何も恥ずかしいことはないというような印象を受けたのです。それは、きっとレーナ・マリアさんがイエス様を真実な心で愛していて、イエス様の愛を存分に受けているからだと思います。
それはもしかしたら、キリスト者全員がそうあるべき。いや、むしろ、キリストにあってそうあることができるということを教えられました。なぜなら、僕は自分が嫌になるほど、心がひねくれているからです。途方もないほどの恵みと憐れみによって救われていたとしても自分の中にある不純物が自分をひねくれさせているのを知っているのです。
復活の栄光の力
僕は変えられたいです。僕はもっとイエス様に近づきたいです。今年のイースターによって昨年よりももっとイエス様の復活の栄光の力にあずかりたいと強く思わされました。