1946_「へりくだり」と「悔い改め」の関所 | 肉にとってもっとも嫌な場所

主のところに行く

信仰生活を送っていると誰であれ山あり谷ありです。また上り坂あり下り坂あり、まさかもあります。しかし、聖書に七たび転んでも再び起き上がると聖書にあるように多少の浮き沈みはあるとはいえ、すぐにそこから立ち直る道が備えられています。

箴言 24:16
正しい者は七たび倒れても、また起きあがる、しかし、悪しき者は災によって滅びる。

その道はシンプルです。ただ主のところに行くということだけです。しかし、これほど簡単なのに人間にとっては簡単なことではないことも事実です。

自分の肉がそれをしたがらない

なぜなら主のところに行く道には必ず「へりくだり」と「悔い改め」の関所を通らないといけないからです。少なくとも僕は頑固で意固地で高慢な人間なので、時に主のところに行くのが困難に感じることがあります。たとえ、頭で主のところに行くしかないとわかっているにもかかわらず、自分の肉がそれをしたがらないのです。

これは人間の七不思議のひとつだと思います。人間はなぜか時に主のところに行きたがらないのです。素直にへりくだって主のところに行ける時もあります。しかし、たとえば、人を赦せなかったり、自分は悪くないと言い張ったり、人を裁いたり、不平不満が溢れる時に主のところに行けなくなるのです。

本心に立ち返る

そういう時はだいたい人の声も耳に入りません。おおよそ、自分で「このままではだめだ」と自覚する時に「へりくだり」と「悔い改め」の関所へと行くことになります。それは放蕩息子の本心に立ち返るという変化と似ています。

ルカによる福音書 15:17
そこで彼は本心に立ちかえって言った、『父のところには食物のあり余っている雇人が大ぜいいるのに、わたしはここで飢えて死のうとしている。

僕はおろかながら、何度もそういったところを通ってきました。しかし、最後は文字通り跪いて「主よ、降参です。私にはあなたが必要です。」と言う告白に致します。すると、主は絶望的なほど真実なお方なので、僕を受け入れてくださるのです。これは驚くべきことです。

イエス様を仰ぎ望む

何度も書きますが、たとえ、どのような状況にあっても、「へりくだり」と「悔い改め」の関所を経て信仰の導き手でありその完成者であるイエス様を仰ぎ望むならば、必ず救いはあります。それは聖書に書いてあるとおりです。

ヨハネの第一の手紙 1:9
もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。

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