1945_結婚相手を求める祈り | 信仰の大いなる逆説を体験する

結婚について

現代の日本においては結婚しない選択も一つの価値観として一般に定着しています。しかし、中国の場合はそうではありません。両親からのプレッシャーが相当強く結婚しなければ、半人前、世間体が悪いという価値観が根強く残っています。だから中国の独身の人は旧正月に実家に帰りたくないというほどです。

当然、結婚という選択は強いられてするものではなく、本人の意思が尊重されてなされるべきものです。そして、さらに信仰の側面から言えば「聖書の言を握っているか?」点こそが優先されなければなりません。

自分の考えが固定

ある人は「主からの声を聞いたから」という場合もあるかもしれません。しかし、結婚となると主観が入り得る点を十分考慮しなければなりません。つまり、主の声ではなく自分の声を主の声として受け取ってしまう可能性があります。

僕は祈りにおいて同様の失敗をしてきました。それは祈る前にもうすでに自分の中で答えが決まっているのです。「僕はこの人と結婚したいから、そして主もきっとそう願っておられるからその答えをもらう」というものです。この祈りの態度の欠点は自分の考えが固定してしまっている点です。

自ら手放した時

一方で本当に主からの答えをほしいと願っている人は主の言葉を待ちます。ここで多くの場合、大いなる逆説を体験します。それは一度、自分の手から強く握っていたものを自ら手放した時に、それ以上のものが手に入るという信仰の原則です。

もちろん、金の斧と銀の斧の話じゃないので、手放せば必ず思っているものが与えられるわけではありません。しかし、手放した時に自分にとっての最善がなされることに間違いはありません。当時、自分の肉にとっては喜ばしいものではなかったとしても、事後的にわかることが多くあります。

あなたがたの思いとは異なる

大好きな御言にこれがあります。

イザヤ書 55:8-9
わが思いは、あなたがたの思いとは異なり、わが道は、あなたがたの道とは異なっていると主は言われる。
天が地よりも高いように、わが道は、あなたがたの道よりも高く、わが思いは、あなたがたの思いよりも高い。

僕は今歩んでいる道が主から与えられている訓練の道だと確信しています。しかし、今後5年、10年、20年自分がどのように生きるべきかについては見当もつかず、不安を覚えることもないわけではありません。しかし、僕が主に「かたく握っていたものを手放す」時に主が道を開き続けてくださると信じています。

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