0424_進撃の巨人ごとく環境の守りの壁が崩壊する時

人間の真価

人間は環境に守られているのであって、その環境が失われた時に真価が問われます。例えば、それほど摩擦の少ない忙しくない日々を過ごすのであれば、心の平穏さを保ちやすいですが、激務になったり、いっぱいいっぱいになると、心の平穏が失われやすくなります。

極端な例でいうと、戦争が勃発して、銃口を向けられた時にどうするか?や飢え死にするかもしれない状態になった時に目の前にある食料を盗み食いしないでいられるか?などがあります。大岡昇平が書いた「野火」などは人間が極限の状態に置かれた時にどうなるかが、生々しく描かれています。

守りの環境がなくなると

じゃあ、進撃の巨人のように今まで守られていた環境という壁が崩壊すると人間は野蛮になるのか?というとそうでもありません。ヴィクトール・E・フランクルが書いた「夜と霧」には、極限の状態におかれた人間が尊厳を失わなかったことが書かれています。上著では、どんな暴力をもってしても、飢えや渇きに苦しんだとしても、自分以外の人間に心を殺すことはできないことがわかります。

自分の心を侵害する許可を与えるかどうかは、自分自身が決めることであり、その心を守り続けるのであれば、どのような状態にあっても人間の尊厳は失われることはないのです。

どんな環境にも処した人たち

新約聖書でパウロはこのように言っています。

わたしは乏しいから、こう言うのではない。わたしは、どんな境遇にあっても、足ることを学んだ。わたしは貧に処する道を知っており、富におる道も知っている。わたしは、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に処する秘けつを心得ている。わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる。
ピリピ4:11-13

僕が今においても、理解できないことの一つは、「なぜ迫害下のクリスチャンたちはキリストを捨てるよりも拷問を受けて死ぬことを選んだのだろう」ということです。彼らは暴力によっては奪われないものをもっていました。そして、拷問を受ける苦しみよりも、決して失われることのない心の喜びをもっていました。だから、キリストを捨てることなく、キリストのために死ぬことができたのだと思います。

環境が変わらなくてもほしいもの

第三次世界大戦は既に始まっているという議論もあったりします。戦争、紛争、食糧危機、物価高、気候変動など様々な不安要素がこの世界に満ちています。日本に住んでいる僕自身もいつ極限状態に置かれるかはわかりません。人間は本質においてはなんら進歩はなく、歴史は必ず繰り返します。

たとえ、明日が極限の状態になっていなかったとしても、今、そのキリストの喜びが心にほしいです。かつてのクリスチャンが心にもっていた何にも奪われることのない永遠に続く喜びが心に存在し続けることを求めます。

おっさん
■誰にも奪うことのできない心の喜びは平安はキリストのもとにある

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