1593_与えられすぎな人生を歩んできた

主が与え

最近はこの御言が心に留まっています。

ヨブ記 1:21
そして言った、「わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな」。

それは、今更ながら僕はこれまで与えられすぎな人生を歩んできたと思ったからです。これはネガティブな意味ではありません。ただ主の恵みや祝福を多く受けすぎてきたと思ったのです。クリスチャンの両親に育てられたことも感謝しています。生まれてすぐ教会に植えられて教会の先生や兄弟姉妹に育てて頂いたことも感謝しています。

主が取られたのだ

何よりも時至って、17歳の時に主が僕に出会ってくださったことほど大きな恵みはありません。ここには書ききれませんが、僕は生まれてこのかた、主の祝福と恵みを多く受けてきました。

冒頭の御言葉に戻ります。

ヨブ記 1:21
そして言った、「わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな」。

僕はこれまでこの御言が好きじゃありませんでした。なぜなら、主が与えて下さる分にはいいですが、主に取られるのは嫌だと思っていたからです。しかし、それは僕がまだクリスチャンとして成熟しておらず低次にいたからです。

主のみ名はほむべきかな

今は僕が自分の命に代えてでも守りたいと思うものを主が取られるかもしれないという状況にあります。これは父としての立場で書くから言えることなのかもしれませんが、僕は「なぜ?やめてください!」とは言いません。なぜなら、冒頭にも書いたように僕自身はこれまで受けすぎてきたからです。

僕は決して自身が成熟したと言いたいわけではありません。そんなことどうでもいいことです。また読者に対して恰好をつけたいわけでもありません。そんなことしても何の意味もありません。

主の愛があれば

ただ主がこんなにも多くのものを与えてくださってきたのに、何か取られることに対して何もいうことはありません。何よりも主はご自身の命を僕に与えてくださったのです。どのような状況にあってもこの主の愛があれば生きていけるのです。

1.どこまでも ふかく おおきな おおきな あい
  このあいこそ すくい ほんとうの しあわせ
  いのちまで すてた じゅうじかの じゅうじかの あい
  このあいから はなれない はなれられない

* このあいこそ このあいこそ
  いかし みたしてくれる
  このあいだけ このあいだけ
  あればいきていける いつまでも

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