なぜ?と祈りたくなった時
誰しも、もしかしたら、これまでの人生で「自分になぜこんなことが降りかかるのだろう?」と思ったことがるかもしれません。それは家庭のことかもしれないし、職場でのことかもしれません。あるいは、心に傷が残る恋人との別れかもしれません。身から出たサビの場合もあれば、全く影響の範囲外で起きたこともあると思います。
その時に、クリスチャンの場合は、神様に祈るでしょう。ある人は、「なぜ?」と問う人もいると思いますし、または「御心がなるように」と祈る人もいると思います。祈って立ち向かう力が与えられて歩き続ける。あるいは、祈って圧倒的な平安が与えられ、この方がいるなら大丈夫と安んじて進んでいける人もいると思います。
問題は、立ち向かう力も平安も得られない時だと思います。
神の大局観
聖書にはこのような言葉があります。
わが思いは、あなたがたの思いとは異なり、
わが道は、あなたがたの道とは異なっていると
主は言われる。
イザヤ55:8
神様の思いは私達の思いとは違うようです。ともすれば、僕たちは一刻も早くこの辛い状況から逃れたいと思うことがしばしばです。聖書の約束の言葉を強く握りしめ、心に刻み、信じていこうという思いは強くありますが、現状が一切変わらないことに神の沈黙を感じることも時にはあります。
さらに聖書は続きます。
天が地よりも高いように、
わが道は、あなたがたの道よりも高く、
わが思いは、あなたがたの思いよりも高い。
イザヤ55:9
神様は俯瞰的に、大局的に、多面的に、長期的に、包括的に私達を見てくださっていることがわかります。僕たちの関心事項のほとんどは今にあり、今が大切です。喉元過ぎれば熱さを忘れると言われるように、喉元過ぎる時が一番熱さを感じるのです。しかし、神の思いは高く、熱さを忘れる範囲までを見てくださっています。
虚しく地に落ちない
創造主なる主は雨を降らせ、地を潤し、芽を出させ、成長させ、多くの収穫物を人間に与えてくださいます。神様の言葉も同じように私達の心に根付き、心を潤し、信仰を芽生えさせ、成長させ、ついには多くの収穫を与えてくださいます。聖書にはこのように書かれています。
天から雨が降り、雪が落ちてまた帰らず、
地を潤して物を生えさせ、芽を出させて、
種まく者に種を与え、
食べる者にかてを与える。このように、わが口から出る言葉も、
むなしくわたしに帰らない。
わたしの喜ぶところのことをなし、
わたしが命じ送った事を果す。
55:10-11
私達に与えられている御言、聖書の言は必ず実を結びます。虚しく地に落ちることはないのです。そして、ついには、喜びをもって出てきて、主によって、安らかに導かれていき、喜びの声を声高らかに放つのです。