二者択一の中で
僕自身がイエス様の方向をしっかり見つめている時は、僕の魂は主に飢え渇いて、よく主を求めます。それは決して日曜日だけではなく、仕事がある平日においても電車の中やお風呂の中、あるいは寝る前に自分の部屋にこもって祈ることをせずにはいられなくなります。
しかし、イエス様の方向を見ていない時、つまり、二者択一の中でイエス様以外を選ぶと僕の魂はあっという間にイエス様に対して興味がなくなるのを知っています。結局信仰生活とは、自分の意志で、主を選ぶか、選ばないかのシンプルなものなのかと思います。目に見えるものを見えるようにして生きるか?もしくは、見えるものを見ていきるか?
イエス様が共にいるということ
イエス様から目を離さずにいて、魂がイエス様によって満たされている時と、肉の欲を優先した時とでは、全く自分自身が違います。まさに、551の蓬莱のCMのように「イエス様が共にいる時」と「イエス様が共にいない時」で全く違うのです。
ある人は、「イエス様はいつでもどんな時でも共にいるよ」とおっしゃるでしょう。それはそうだと思います。しかし、傍にいてくださっている方のほうを「自分」が向いているか、いないかは全く違います。
共にいるが、僕はどうしているか
少し極端な例を出してみましょう。例えば彼氏が一緒にいてくれるといっても、もし、その人が彼が話しかける声や行動を無視し続けるなら、彼との愛の関係は全く育まれないでしょう。ましてや違う男性のところにいくなどとはもってのほかです。しかし、僕は日常的にイエス様以外のものを選択することがあることを知っています。
それは僕が自由意思を使って自分で自分が見るものを選択しているのです。何度も言いますが、確かにイエス様は共にいてくださっています。しかし、その事実だけで満足するなら、何もかわりません。イエス様を見て、イエス様と交わり、イエス様を知らないと本当の意味でインマヌエルの神、我らと共におられる神は体験できないと思います。
主の方を向く方法
もし、今イエス様のほうを向けていないなら、方向転換する方法がいくつかあります。一番は聖書を読み、祈ることですが、なかなかそれが難しいこともあります。最も簡単な方法が賛美することです。Youtubeなどで賛美の曲を聴くだけでも心が主に向かうでしょう。もし、それでも難しいなら、教会へ行くことです。そこでは本当の礼拝が捧げられており、多くの人が主だけを見て、見上げて礼拝しているところだからです。
もし、一度イエス様のほうを向けたなら、あとは自然と魂が主を慕い求め始めます。主が共にいてくださるだけではなく、僕自身もイエス様と共にいる者になりたいです。