1450_キリストを何か自分の都合のいい神様としている

下に向かって進むらせん状の階段

僕は先月の2月で39歳になりました。残念ながら見た目は39歳ですが中身は2歳児のような人間です。39歳になるまでの間に洗礼を受け、個人的に主にお出会いすることも経験しました。しかし、僕の記憶に残る39年間の大部分は失敗で会ったように思います。特に救われる前は致命的な失敗しかしていませんでした。当時の僕の人生は、下に向かって進むらせん状の階段のようでした。

自身の能力も資質も人間関係も社会的な関係もすべて、生きれば生きるほど低減するというようなものです。何かしないといけないと思って動けばすべてがマイナスに出るというような人生であったと思います。

根本的に価値観が変わった

スピリチュアル界で使い古された言葉で恐縮ですが、しかし、本当に僕はキリストにあって変えられました。それは自分のどこか一部が変わったのではなく、根本的に価値観が変わったという体験でした。自己啓発での言葉でいれば、パラダイムシフトというような経験だと思います。本当にこの御言葉のとおりです。

わたしたちも以前には、無分別で、不従順な、迷っていた者であって、さまざまの情欲と快楽との奴隷になり、悪意とねたみとで日を過ごし、人に憎まれ、互に憎み合っていた。ところが、わたしたちの救主なる神の慈悲と博愛とが現れたとき、わたしたちの行った義のわざによってではなく、ただ神のあわれみによって、再生の洗いを受け、聖霊により新たにされて、わたしたちは救われたのである。この聖霊は、わたしたちの救主イエス・キリストをとおして、わたしたちの上に豊かに注がれた。これは、わたしたちが、キリストの恵みによって義とされ、永遠のいのちを望むことによって、御国をつぐ者となるためである。
テトスへの手紙3:3-7

遠回りをしているクリスチャン

とはいいつつも、僕はかなり遠回りをしているクリスチャンだと思います。なぜなら、救われてからも、なお多くの失敗を繰り返してきた人間だからです。その理由としては、肉が強かったからです。また言葉ではわざわざ書くことはないにしても、キリストを何か自分の都合のいい神様としていたからです。

よくあるのは、「イエス様は愛に満ちたお方だから何してもゆるされるよね」というような全く信仰心のないクリスチャンです。そしてそれが僕を大いに高ぶらせていました。救われる以前とは性質は全くことなりますが、ある一面においては救われる前よりも面倒な存在になっていたこともあると思います。

あの時に戻りたいなどとは少しも思わない

僕はその過去を肯定することは決してしません。またそれを遠回りだと思っており、深く後悔すらしています。しかし、それらは自身の半面教師としていつも僕を正しい位置に戻してくれるものでもあります。なぜなら、その時と今主と共に歩めている絶大な価値を比べたら、あの時に戻りたいなどとは少しも思わなくなるからです。

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