正しい位置に戻してくれる御言
日々生活する中で僕を正しい位置に戻してくれる御言の一つにこれがあります。
その時、ダビデはひじょうに悩んだ。それは民がみなおのおのそのむすこ娘のために心を痛めたため、ダビデを石で撃とうと言ったからである。しかしダビデはその神、主によって自分を力づけた。
サムエル記上30:6
もし、身体的にも精神的にも霊的にも疲れるようなことがあっても、この御言を回すことによって「主に祈ろう」と思えます。もし主に近づこうとしないのであれば自分で自分にいやしを与えるしかありません。そして、そのいやしは自分では休息だと思っていたとしても実情は全く逆に疲れさせるものであることもしばしばです。
感覚的に楽しめるコンテンツ
たとえば、僕がもし主に近づこうとしないなら、結構高い確率でどうでもいいコンテンツや動画を見て自分にいやしを与えようとします。そういったコンテンツはどうでもいいからこそ過度の緊張から解放してくれる効能もあるかもしれません。しかし、たとえ緊張から解放されても自分自身はどうでもいいコンテンツの影響を受けてしまいます。そして逆に疲れてしまうということがありました。
だいたい、疲れている時は理性の力もだいぶ弱まっているので、そういった本能的に感覚的に楽しめるコンテンツに手が伸びやすいです。しかし、そのような状況にあってもこの御言を回すのです。
しかしダビデはその神、主によって自分を力づけた。
サムエル記上30:6
神によって力づけられる
また他の箇所ではダビデは他の人に神によって力づけられる経験もしています。それはヨナタンです。彼は決して人間的な同情や言葉だけでダビデを励ましたわけではありません。彼は確かに神によってダビデを励ます者でした。
サウルの子ヨナタンは立って、ホレシにいるダビデのもとに行き、神によって彼を力づけた。
サムエル記上23:16
この神によって力づけるには前提があると思います。それはまずヨナタン自身が神によって力づけられていたこと。そして、ヨナタンがダビデのために日々祈っていたことです。だからこそ、まずは自分自身を神によって力づける者になり、そして、周りの人すらをも神によって力づける者になりたいと思いました。