御言を味わう
僕が17歳くらいで自発的に聖書を読み始めた頃はまだ黙想する、御言を味わう、咀嚼するということが一体どういうことなのかわかっていませんでした。それがわかるようになったはこのようなプロセスを経てからでした。
まず、聖書の御言を暗唱します。暗唱のプロセスで御言が紙に印刷された文字から切り離されて自分の中に入ります。暗唱聖句をするには必ず御言を口で告白したり、黙想します。それが味わう一歩になったのです。
聖霊に触れられて活性化
しかし、これで終わりではありません。御言を味わうプロセスの醍醐味はその御言が聖霊に触れられて活性化した時です。祈りの中で祈りに導かれて、暗唱した御言を霊に触れられて告白する時にその御言を知識や理性においてだけではなく、霊的に悟ることができるのです。
よく聖書に書かれている御言はロゴス、聖霊によって個人的に語られた御言はレーマと言います。レーマに関しては宗派によって賛否両論あります。その理由としてはいくつかあると思います。
個人的に語られた
一つ目はそもそも霊的に感じたということは主観であり、それが聖霊によるものなのか、個人的に都合よくそう思っているだけかわからないという点です。二つ目は、御言を選好みしてしまう可能性があるという点です。レーマを間違って理解すれば個人的に受け入れたい御言ばかりを受け入れてそれ以外は受け入れないという危険性があります。
レーマという考え方には上記リスクがあるのは確かです。しかし、レーマと言わずとも誰でも「特定の聖書の言葉が個人的に語られた」という経験はあると思います。
そして、そういった御言によって「道が開かれた」、「救いを確信した」、「答えが得られた」というのはあるものです。僕はこういった体験を聖霊によって御言が活性化するという表現を使っています。
インスタンス化される
たとえば、Webシステムはソースコードによってよって構成されています。そのソースコードは稼働しているサーバーに配置されており、いつでもだれでもアクセスすることができます。そして、アクセスする時にはじめてサーバーのメモリ上に実体としてインスタンス化されます。このインスタンス化されるのに似ていると思っています。
ソースコードはインスタンス化されなければ、それだけでは設計図に過ぎないですが、アクセスされる時に初めてメモリ上に実体として存在するのです。僕は自身の心の中に御言が実体として存在するにはやはり、暗唱聖句、聖霊によって活性化が必要だと思っています。













