1755_いくつかのアプリを削除するように示された

果たしてこれでいいのだろうか?

先日は、早朝主と交わる時間を持っていますが、「果たしてこれでいいのだろうか?今のところ果たして十分交われているかどうかは自分にはわかっていません。」と書きました。

1752_早寝早起きのメリットとデメリット

その理由が少しずつ分かってきた気がしています。それは僕がまだ手放していないもの、囚われているもの、執着しているものがあるからでした。そしてそれはあるものに現れているということもわかりました。

スマホのアプリ

あるものとはいつも使っている「スマホ」です。僕は祈りの中でいくつかのアプリを削除するように示されました。僕自身はそのアプリに囚われているなんて思ってもいなかったのですが、振り返ってみれば何かあればそのアプリを開いていることを自覚しました。そうして、僕はそのアプリを削除しました。

削除してしばらくアプリがないのに見ようとする自分がいることに気づきました。確かに僕はそのアプリに囚われてしまっていたのです。もちろん、何か禁断症状とか、悪い気分になるとかネガティブな要素があったわけではありません。ただ主がそれを手放しなさいと示してくださったのです。

義とされるだけじゃまだ満足できない

僕はそれ以外にも手放さないといけないことをいくつか示されています。人間の目からすれば大したことないとおもうようなことでも主からしたら大したことがある場合は多くあります。もし、それを一つ一つ書けば、「そんなことをするなんてストイックすぎる。それは律法主義だ。行いによらなくても義となるのだ。」というような声も聞こえてきそうです。

確かにそれは事実です。僕は行いによってではなく信仰によって義とされています。それはイエス様の十字架のおかげであり、言葉に尽くせない感謝しかありません。しかし僕はそれだけじゃまだ満足できません。義とされた者として義とされた者らしく実際に生きたいと思っています。

手放す、捨てること

信仰によってそうなっているのであれば、それを自分の生き方として表したいし一貫性を持たせたい、それが僕の強い願いです。だからこそ、そこまでしなくてもと思われるような領域まで主に取り扱って頂き、主に近づきたいと思っています。

今年は、手放す、捨てることによって本当に大切なものがとぎすまされていよいよ主に近づき、主との親密な交わりの中に入っていける年になるように祈っています。

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