1259_肉にあって歩んでいるクリスチャンは肉的か?

この世界では確かに肉にあって歩んでいる

先日はこの御言を引用して、クリスチャンは信仰によってキリストにあって歩んではいますが、この世界では確かに肉にあって歩んでいることを書きました。

1257_わたしたちは、●●●にあって歩いてはいるが

そして肉にあって歩んでいることは決してネガティブなものではないとも書きました。実際この地上で生きていく上では仕事も家事も肉によって臨む場合がほとんかもしれません。(もちろん祈って仕事に望むこともあり完全に霊的ではないとは言えません)

また実際肉を生かすために水も食料も食べないといけません。それはそれがこの地上で生きるルールだからです。この地上においては肉にあって歩むのが当然なのです。しかしそれと同時に、キリストにあって歩んでいるという真実も忘れてはいけないと書きました。

クリスチャンはこの肉にあって歩んでいるからこそ

今日も肉に関して続けます。実際、クリスチャンはこの肉にあって歩んでいるからこそ、この手と足を使って神様のために働くことができます。もし天国に行ってしまえば、すぐにこの肉からは解放されますが、この地上での福音宣教の働きはできなくなります。つまり、肉にあって歩んでいないとこの地上では神様のために何もできないのです。

これは一つのルールのようなものです。スポーツにしろボードゲームにしろ必ずルールがあります。ルールという制約があるからこそ楽しめるのです。もしルールがなくてなんでも自由にしていいとなったら、スポーツもボードゲームも成立しません。プレイヤーは誰一人いなくなることでしょう。

神様が立てた法則

この世界もルールがあります。それは神様が立てた物理の法則や自然の法則などすべて含まれます。神様はこの世界を創造された時に明確な法則を作られました。そして、誰もがその法則のもとでこの世界で生活しています。神様が超自然的な軌跡をされる時は、この神様が作った法則を例外的に外すことによってそれができるのです。

自然の法則に従えば太陽は必ず沈みますが、ある時は何時間も沈まなかったのです。人が死んで腐るほど時間が経過していれば生き返ることはできませんが、イエス様は法則を外し死人をよみがえらせました。水は何もしないでは水のままですが、何も追加することなくぶどう酒に変えることすらできました。

肉とう制限

だから神様が作った法則のもとで、言い換えれば肉とう制限がある中で歩んでいるのはごく自然のことだということです。

僕はこれまで肉は肉欲や欲望をイメージしてしまい、非常にネガティブな印象をもっていたのですが、「実際は肉にあって歩むことは自然なことである。しかし、信仰によってキリストにあって歩んでいるということを忘れてはいけない。」ということ思いました。

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