0078_キリストの圧倒的な勝利の凱旋に加わり前進し続ける

デール・カーネギー氏の著書にこのような話が書いてありました。セリフなどは記憶が定かではないのですが、おおよそ要約するとこのようなものです。

ある日、男性が電車に乗っていた時、停車駅で子連れの父親が乗車してきました。子供2人は電車に乗るや車内で大声ではしゃいだり走り回ったりしていますが、父親は一切注意しません。

子供たちはやりたい放題で、周囲の乗客も明らかに迷惑そうに感じていました。男性は注意しない父親に対して批判したい気持ちになりましたが、控えめに父親に注意しようとします。

男性:「子供たちが、元気そうに走り回っていますが、お気づきでしょうか。」
父親:「(初めて車内の子供たちの様子に気づいて)本当ですね。申し訳ございません。先ほど、子どもたちの母が病院亡くなり、その帰りなのです。私もこれからどうしていいかわからなくて。子どもたちも混乱しているのだと思います。」

それを聞いた男性は、同情の心が沸き起こり、「私になにかお手伝いできるこはないでしょうか。」と男性に言ったそうです。

もし、この男性が反応的に父親を批判していた場合どうなっていたでしょうか。「ちょっと、あなたは何を考えているんですか?乗客達が迷惑しているじゃないですか!ここは公共の場ですよ!子供たちを注意して静かにさせてください!」

まず、批判した自分がイライラしてしまい、「今日は、こんなダメ父親が電車いたんだよ!」と他の人に言うかもしれません。批判された父親は妻が亡くなったショックに更に傷を受けてしまいます。叱られている父親を見て、子どもたちもショックを受けるでしょう。

少しの思いやりが周りに大きな影響を与えることがわかります。

しかし、日常生活においては「さわやか3組」で学んだ道徳を守れない自分がいることを知っています。親切心、思いやり、相手の立場になって考えるなど、社会人になってからでも、油断すると自分中心で物事を考えて判断してしまいます。

しかし、キリストの十字架の罪の赦しを経験したクリスチャンは、キリストの圧倒的な勝利、ぶち抜けた勝利、完全な勝利があるので、自分の罪の性質に勝つことができます。

神は、わたしたちを責めて不利におとしいれる証書を、その規定もろともぬり消し、これを取り除いて、十字架につけてしまわれた。そして、もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである。
コロサイ2:14-15(口語訳)

キリストの十字架を見上げる時に、圧倒的な勝利が得られます。そして、イエスが愛してくださったように、あなたがたも愛し合いなさいという言葉を実行できる者となると信じます。キリストの圧倒的な勝利の凱旋に加わりつつ、感謝と喜びをもってキリストと共に前進し続けます。