1286_すべてのクリスチャンは律法主義に陥るという前提

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恵みの中を生きたいが

クリスチャンであれば誰でも信仰によってキリストの恵みの中を生きて律法主義には生きたくないと願っていると思います。それは福音書にも多く書かれているように律法主義に陥った当時の宗教的指導者たちがキリストの恵みから落ちてしまったからです。落ちたというよりも聖書にあるとおり、自ら退けたのです。

「家を建てる者の退けた石が、隅のかしら石となった。
詩編 118:22

僕自身もいつも信仰によって恵みに満たされて恵みの中で生きたいと願っています。しかし、自身の経験から言えば、そう願ってはいても気づかないうちに律法主義になる傾向があるというのを自分の中に認めざるを得ませんでした。

この世界の原則

なぜ自分はすぐに律法主義に陥るのかと思いめぐらせていた時に一つの考えがきました。それは、この世界の原則は基本的に行いによってすべてが評価されるため、その中で生きていると、そういった考えが次第に自身に浸透していき行いによる義という点に偏ってしまうということでした。

たとえば、仕事ではパフォーマンスを見られます。パフォーマンスが低ければ評価は下がり高ければ評価はあがります。ようはすべてアウトプット(行い)次第なのです。また、教会では仕事ほどパフォーマンスは求められませんが、実務の奉仕をする中では確実にパフォーマンスも求められます。それはその人がどうのこうのというのではなくて、与えられた奉仕を完遂するためには主にあってパフォーマンスを出さないといけないと思ってしまうのです。

誰でもそうなる危険性がある

そのような行いの原則の世界で生きていると、特に意識しないとそういった考えが信仰の領域にも入りこんできて、行いによる義認という律法主義に陥ってしまう可能性があります。それはこの世界が悪いとかその人が悪いとかいうわけではなくて、誰でもそうなる危険性があるから仕方がないというものだと理解しています。

だから、僕はこう考えています。

「僕はいつでも律法主義に陥る危険性がある。それはこの世界が行いによって評価される世界だからです。その中で生きているとその影響を受けてしまう弱い者です。しかし、主は生きている魚が海で塩臭くならないように、霊的に生きているもににはたとえ、この世界で生きてもその影響を受けないようにする力があることを信じます。どうか、僕が高ぶって律法主義に陥ることがないように、いつも信仰によって主の恵みに満たされて恵みの中で歩めるようにお助けください。」

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