1212_クリスチャンがストイックに生きすぎると証にならない?!

自身にストイックな人たち

僕は筋トレが趣味で、時々、ベストボディやフィジークといったボディビルダーの一種のような大会の動画を見ることがあります。別にそういう人たちの肉体がかっこいいから見ているのではなくて、彼らのストイックさがかっこよくて見ています。彼らは数か月かけて増量期で自身を追い込み最大限の筋肥大を目指します。そして、また数か月かけて大会に向けて減量期を過ごします。

好きなものをいつでも食べるという習慣を数か月やめて完全に制限をして自分の体を絞りこむのです。彼らは1回の大会のためにそうします。多くが優勝を目指しますが、優勝するのはたった一人だけです。それでも彼らは数か月の減量期を喜んで受け入れて上を目指すのです。

聖書にはこのような言葉があります。

あなたがたは知らないのか。競技場で走る者は、みな走りはするが、賞を得る者はひとりだけである。あなたがたも、賞を得るように走りなさい。しかし、すべて競技をする者は、何ごとにも節制をする。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするが、わたしたちは朽ちない冠を得るためにそうするのである。そこで、わたしは目標のはっきりしないような走り方をせず、空を打つような拳闘はしない。すなわち、自分のからだを打ちたたいて服従させるのである。そうしないと、ほかの人に宣べ伝えておきながら、自分は失格者になるかも知れない。
コリントⅠ9:24-27

クリスチャンのストイックは証にならない?!

僕はこの御言は少しストイックすぎないか?と思っていた時期がありました。実際、聖書にはこのように書かれていても生き方をストイックにしすぎることで、周りの人に証にならないんじゃないか?と思っていたことがあるのです。

ようは、この世の中の娯楽に関して何も知らずに教会生活と仕事で日々を粛々と送っていることが周りから見た時につまらない人生と思われるのではないか?ひいては、それが周りの人に「クリスチャンの生き方ってつまらなさそうだよね」と思われることがよくないんじゃないかと思っていたのです。

主の御霊によって生きているクリスチャン

しかし、今はそういった考えが完全に間違った考えであったとわかりました。現実は「クリスチャンの生き方ってつまらなさそうだよね」と思う人はいないのです。実際僕がフィジークの選手のストイックさに尊敬の念を抱いているように、クリスチャンのストイックさにではなく、クリスチャンの生き方に尊敬の念を抱く人がいると思います。

もちろん、クリスチャンが無理して禁欲的に生きていたらそう思われても仕方がありません。しかし、罪のくびき、罪のなわめから解き放たれて、主の御霊によって生きているクリスチャンであれば、「あの人はなぜあんなに喜びに満ち溢れているのだろう?」と思ってもらえると思うのです。

きよめられた生活をしたい

僕は過去に何度もチャレンジしましたが、もうに二度と自分で頑張るストイックな生き方はしません。しかし、主を愛するがゆえに、主によってきよめられた生活をしたいという願望のゆえに、御霊によってパパウロがいう節制する生き方をしたいと強く願っています。それが証になると信じているからです。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA


日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)