0569_聖書は神様からのラブレターとは言うけれど…

御言の力

昨日はお客さんからの連絡が色々と重なり珍しくかなりぐったりして家に帰りました。ごはんを食べてお風呂も入らずに眠りにつきましたが、朝5時頃にSlackを見ると急ぎの連絡が入っており対応しました。そのあとは眠れなくなってしまったので、とりあえず1時間くらいお風呂に入りました。

その後、毎朝のルーティンの神様に近づく時間になったので、いつものように聖書を読んだり暗唱聖句をしたり、祈ったりしていました。そうしているうちに、御言に励まされて、心のうちに力が湧き上がってくるのを感じました。

イエス様が励ましてくださっているのがはっきりわかりました。ゆっくりとした一人の時間の中で心が溶かされていくのがわかりました。かなり大げさですが、今日や明日を生きる力だけでなく、この地上で主にあってこの命を全うする使命や望みを新たにしました。

聖書は霊で読む

このブログでは何度か書いていますが、ワインは頭で飲むようように、聖書は霊で読まないと意味がありません。

0220_一蘭のラーメンは頭で食べる。聖書は霊で読む。

もし聖書を頭で読むならただの知識にしかなりません。しかし、霊で聖書を読むなら知識が啓示に変わります。直接神様が語ってくださっているのがわかるようになります。そしてその御言によって本当に命を与えられ、励まされ、恵まれ、祝福され、希望を与えられるのです。

霊で読むというとスピリチュアルのような感じがしますが、神は霊である以上、スピリチュアルな側面は避けられません。聖書には明確にこのように書かれています。「人を生かすものは霊であって肉はなんの役にも立たない」と。

具体的に?

じゃあ、霊で読むとは具体的にどのような姿勢なのでしょうか。よく聖書は神様からのラブレターと言います。「恋人からもらったラブレターはすみからすみまで読むでしょう!」なんて言われますが、僕は正直、かなりドライなので恋人からもらったラブレターを読むような気持ちで聖書は読めません。

霊で読む第一歩は信仰を働かせることです。イエス様が罪を赦してくださっている。イエス様が今も生きておられるということを信じるところから始まります。

そして、主ご自身をもっと知りたい。もっと求めたい。という心の飢え乾きをもって読むことが霊で聖書を読むことだと思っています。もし、義務的にタスク的に勉強的に聖書を読む場合、意味はないとは思いませんが、本質的な神様の恵みはのがしてしまうような気がします。

おっさん
■聖書は霊で読む書物

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