1213_福音宣教を任せられない人

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神さまの御心

神さまの御心は聖書に書かれているとはわかっていても、自分の個別の事案に関しては「神様の御心がわからない」という状況は意外と少なくないかもしれません。しかし、多くの場合、個別の事案に関して明確な御心がわからなかったとしても聖書に記載されている御心に従うと自然と道が開かれていくということがあると思います。僕の人生でもそのほうが多かったと思います。

では、神様の御心はなんでしょうか?ぐっと視座を上げると、「主なるあなたの神を愛しなさい」とか「まず、神の国と神の義とを求めなさい」といった御言を思い出します。しかし、今日は、今朝聖書を読んでいて教えられたもう少し具体的な神の御心について書きたいと思います。

神殿は祈りの家

今朝はヨハネによる福音書2章を読んでいました。ここでイエス様は神殿で商売をしていた人たちに対して過激と思えるほどの行動をされます。縄でむちを作り、商品である動物たちを追い出し、商売をしている人たちの台をひっくり返したのです。

そして牛、羊、はとを売る者や両替する者などが宮の庭にすわり込んでいるのをごらんになって、なわでむちを造り、羊も牛もみな宮から追いだし、両替人の金を散らし、その台をひっくりかえし、はとを売る人々には「これらのものを持って、ここから出て行け。わたしの父の家を商売の家とするな」と言われた。
ヨハネ2:14-16

これは明確な神の御心です。つまり、神殿は祈りの家であって、それを他のものに利用するということは決して許されることはないということです。

きよめにおいて徹底

僕はこれまで寛容なイエス様が激怒した意外な一面だけを見ていました。しかし、今日教えられたことは、イエス様が「きよめ」に対して強烈なほどの熱意をもっておられたということでした。きよめに対して少しの妥協もないどころか、少し乱暴ともいえるような方法を使ってまでもきよめることが重要だと思っておられたのです。

これは神様の御心です。神様はクリスチャンのきよめにおいて徹底することを求めておられるのは明らかです。しかし、いざこの世界で生きるとなると「このくらいはいいよね」と妥協してしまう弱さがあると思います。

福音宣教のことについて彼らには任せられない

もし、この神様の徹底的なきよめに対して無視やあいまいな答えで応えるなら、イエス様は悲しんでおられると思います。少なくとも僕は長い間イエス様を悲しませてきました。次の聖書箇所にははっとさせられることが書かれています。

過越の祭の間、イエスがエルサレムに滞在しておられたとき、多くの人々は、その行われたしるしを見て、イエスの名を信じた。 しかしイエスご自身は、彼らに自分をお任せにならなかった。それは、すべての人を知っておられ、また人についてあかしする者を、必要とされなかったからである。それは、ご自身人の心の中にあることを知っておられたからである。
ヨハネ2:23-24

これはどういうことでしょうか?この時、確かにイエス様を信じた人たちがいました。しかし、イエス様は「彼らに自分をお任せにならなかった。」とあります。つまり、イエス様はご自身のこと、福音宣教のことについて彼らには任せられないと思われたのです。

徹底的なきよめを求めて

この箇所を読んだ時に身が震えるような気持になりました。僕は福音宣教に関してイエスさ様に任せてもらえるようになりたいと願っています。そのためには自身に対する徹底的なきよめを求めて、イエス様が任せてもいいと思える器になることです。

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