大切なのは動機(心)
昨日は主に対する切なる飢え乾きを動機としていれば、信仰生活に定量的な目標を入れるのは問題ないと思うと書きました。そして僕は現状、1日に1時間主の前に出て祈ることを習慣化させたいということを書きました。何度も書きますが信仰生活や福音宣教に関して定量的な目標を掲げることに抵抗感を抱く人がいることも知っています。
しかし、大切なのは動機(心)です。なぜその定量目標を設定したのか?が大切です。何より人は数字を見ないと動かないという性質があるということも確かな事実でもあります。期日を決めて定量化された目標を設定してこそ人は動く、そいういうものです。数字は利用するもので悪いものでも良いものでもありません。
来週から聖日礼拝はありません
こういったことを書きすぎると自己啓発的になるのでこのあたりでやめておこうと思ったのですが、それでも一つ例を出したいと思います。人は外側からの設定によって守られて動くということを説明したいと思います。
それは聖日礼拝です。もし、仮に「来週から聖日礼拝はありません」となった場合、クリスチャンの皆さんはこれまでと同じ通りに同じ時間に礼拝を捧げることができるでしょうか?きっと最初はできると思います。しかし、一人で礼拝を守り続けるのは簡単なことじゃありません。おそらく、次第に安きに流れてしまいます。もしかしたら少なくない人が次第に一人で礼拝することをやめていくのではないでしょうか?
なぜこんなことを書くかというと、僕自身がきっとそうなるだろうと思っているからです。聖書は人の弱さをご存じです。だからこそ、安息日を定めてくださって週に少なくとも1回は主の前に出ることができるようにしてくださったのだと思います。
外側からの設定によって
以上のように、人は自由意志だけに頼っては信仰生活を送ることはできません。聖日を定めてくださって外側からの設定によって人は主の前に出ることを習慣化されています。僕が言いたいことは、定量化された目標もそれと同じ働きをしてくれるということです。
定量化された目標がなければ「あ、今日は忙しすぎて主の前に出れていない!」とも思いません。そのまま惰性で主の前に出ない日が1日1日と過ぎていくのです。しかし、定量化された目標があれば、その気づきを与えてくれるのです。
主は心を見てくださる
僕はこれを恵みだと思っています。なぜなら、それは僕を主の方向に向けてくれるからです。もちろん、主に対する切なる飢え乾きを動機としていなければ、早晩、律法主義に陥ってがんじがらめになり、自由を失うことでしょう。
しかし、動機(心)が正しければ結果も正しくなると思っています。なぜなら、主は心を見てくださるお方だからです。