自分の可処分時間に何をしているか?
昨日は自由意志について書きました。今日も続けたいと思います。僕はかつてこのようなことを書いたことがあります。それは「自分の可処分時間に何をしているか?それがあなた自身だ。」というものです。その可処分時間を何に使うか?については完全に人間の自由意志に委ねられています。
神さまは無理やり人に何かをさせようとはされません。人間が自分の意志で神様を求めてほしいと願っておられます。そして聖書に書いてあるとおり、求める者は得、探す者は見出し、門を叩く者は開けてもらえるのです。
主に対する飢え乾きを動機
僕の課題はまさにこの可処分時間をどのように使うか?です。自分ではもっと主との交わりの時間(祈り)に使いたいと思ってはいますが、なかなか実行に移すことができていません。まずは、僕の中で、主に対する飢え乾きを動機として結果的に1日に1時間は祈りたいと思っています。
1日に祈る時間を決めるという方法論的な側面を見て、ある人は律法主義に陥るというかもしれませんが、主に対する飢え乾きを動機としてそのような1日の歩みをしたいと願っています。
1044_祈りは自発的にするものだ!1時間とか強制的にやるのは律法主義だ!?
1049_1日に1時間祈る!ん?二週目は既に雲行きが怪しく…
定量的な目標
ではなぜ僕が1日1時間という定量的な目標を定めたのでしょうか?それは新約聖書に出てくる人物はおそらく1日に何時間も祈る生活をしていただろうと考えているからです。つまり、聖書の御言に沿った生き方をするためには、彼ら彼女らのような主との深い交わりの時間なしにはできないと考えているからです。
ヨハネは明確に「兄弟を愛さない人は神を愛していない」や「神と共に歩んでいる者は罪を犯すことがない」と書きました。正直、これは僕にとって非常に難易度の高い御言です。しかし、もし当時の彼らと似た日々の信仰生活を送れるのであればそういったことも信仰によってできるのではないかと思いました。
祈りが少なければ力も少ない
例えば、インドの聖人と言われているサンダー・シングという人物が過去にいましたが、彼は1日に5時間は祈っていたようです。彼は現代の使徒と言われるような人でした。また僕の母教会の牧師先生は具体的に1日に何時間祈っているかわかりませんが、1日の多くの時間を祈りと御言の時間に使っていた様子でした。
実際、現代の牧師先生が1日に何時間祈りや主との交わり、瞑想に時間を使っているかはわかりません。しかし、少なくとも「祈りが少なければ力も少ない。多く祈れば力も多くなる。」ということは事実だと思っています。