何を望んでいきているか?
僕たちは普段何を望んでいきているでしょうか?クリスチャンであれば建前上は、神様の御心を求めて生きてると思いがちですが、僕の場合の実態は、自分や家族の健康や、仕事がうまくいくことなど極めて自己中心的なことを求めています。
また、僕たちは普段何を考えているでしょうか?人は普段考えていることがその人自身を表しています。考えたとおりの言葉を発し、考えたとおりに行動します。ですから、自分が何を考えているのかを知りたければ自分の可処分時間を見ればわかります。その時間に自分のしたいことをしていればそれも結局自己中心的なこと考えていることになります。
パウロが切実な思いで待ち望んでいたのは
では、聖書はどのように言っているのでしょうか?また聖書の主要な人物は何を望んでいたのでしょうか?パウロはこのように言っています。
そこで、わたしが切実な思いで待ち望むことは、わたしが、どんなことがあっても恥じることなく、かえって、いつものように今も、大胆に語ることによって、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストがあがめられることである。
ピリピ人への手紙 1:20
パウロが切実な思いで待ち望んでいたのは、キリストがあがめられることでした。
主はなぜあがめられるべきお方なのか?
では主はなぜあがめられるべきお方なのでしょうか?知識において理解はできます。それは主が創造主でり、天の父であり、十字架で罪を赦してくださったからなどです。しかし、それを知ったからとて主をあがめることはできません。なぜなら、多くの人が教会に来てそれを「知った」としても主をあがめるに至る人はごくわずかだからです。
だから聖書は言います。
聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」と言うことができない。
コリント第一12:3
つまり、聖霊によらなければ未信者であれ、クリスチャンであれ主をあがめることはできないのです。
深い知識と鋭い感覚
僕は聖霊によって自分がいつも主をあがめることができるように強く願っています。パウロが言っているように表面的なぺらっぺらの知識ではなくて、深い知識において、また霊的に鈍感な態度ではなくて、鋭い感覚において主をもっと知りたいと願っています。
2024年は間もなく終わりますが、来年はますます聖霊によって「イエスは主である」と大胆に告白し、時々刻々と主をあがめる者になりたいと願っています。