遠近両方を見ることはできない
先日車を路肩に停車して遠方に立ち並ぶビルをぼんやりと眺めていました。すると雨がぽつぽつと降ってきて、フロントガラスに雨粒が落ちてくるのが見えました。その時に当たり前のことを思いました。それは、遠近両方を見ることはできないということです。
僕は遠方にあるビルと雨粒の両方を見ようとしましたがうまくいきませんでした。遠方のビルを見ようとするとピントがビルにあたり、雨粒がぼやけます。一方で雨粒を見ようとするとビルがぼやけるのです。
両方見ようとしている
これはとても当たり前のことです。しかし、こと信仰においては両方見ようとしていることがあるのではないかと思ったのです。それは僕自身がそうしようとしていると思ったのです。
信仰における近くのものとは、生きている世界のまさにこの今です。そして遠くにあるものというのは天のふるさとであり、魂がまことの安らぎを得る永遠の場所です。僕は神様の御心を求めながらもなお、自分のやりたいことを求めている場合が多いと思わされています。
天のふるさとを意識
つまり、遠近両方見ようとしているのです。しかし、そうしようとするとどうなるでしょうか。結局いずれしか見れなくなります。この世界の今を見るならば永遠の天のふるさとはぼんやり見えなくなってしまいます。しかし、逆に永遠の天のふるさとを見ようとするならば、この世界はかすみます。
天のふるさとを意識して生きるということはクリスチャンにとって最重要と言ってもいいと思いますが、その角度から語られることはそれほど多いようには思いません。あり方がすべての行動を決めますが、天のふるさとを意識するという生き方は、永遠のいのちの尊さへと救いの切実さを体感させるものです。それが福音宣教につながります。
ふるさとを求めていること
これは僕が大好きな御言の一つです。
ヘブル人への手紙 11:13-14
これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。
そう言いあらわすことによって、彼らがふるさとを求めていることを示している。
僕には、約束のものをこの地上で受けたいと思っているふしがあります。それはこの世に属するものです。しかし、まことの信仰者はこの地上では約束のものは受けていなかったのです。それをはるかに望み見て喜んでいたのです。そのような者でありたいです。