1611_バックミラーもサイドミラーもない車

わかっちゃいるけどやめられない

昨日は車のフロントガラスに落ちてきた雨粒と遠方にあるビルを両方見ることはできないと書きました。それは信仰において、この世界と天のふるさとを同時に見ることができないことと同じと書きました。両方見れないという原則にはメリットがあります。なぜなら、天のふるさとを見ればこの世界のものはかすんで見えるようになるからです。

その状態を一言で書けば、「わかっちゃいるけどやめられない」という状態から解放されるということです。この世界の魅力や美しさや匂いはビンビンと五感に訴えかけてくるから「わかっちゃいるけどやめられない」状態になってしまいます。しかし、天のふるさとを見ればこの世界に対する五感は死に、天のふるさとに対する五感が活性化され始めます。

行きたいところに行けなくなってしまう

今日も車の運転から教えられたことを書きます。僕は車の運転は非常に信仰生活に近いことをしていると感じました。車の運転では当たり前ですが、ずっと前を見ているわけにはいきません。バックミラーをみたり、サイドミラーを見たり、死角に目を配ったりと周囲の状況を常に確認しながら前に進んで行きます。

もし、バックミラーもサイドミラーもない車なら絶対に運転したくありません。田舎の道ならまだしも環状線など主要道路ではサイドミラーがなければ車線変更すらできません。つまり、行きたいところに行けなくなってしまうのです。

バックミラーで後ろを確認するがごとく

現実世界での信仰生活は多くの場合猶予のない意思決定の連続です。それに対していつも完全に正しい意思決定することは不可能です。もしそれができるならその人は神でありもはや人ではありません。クリスチャンは不完全な中であって精度を上げようと奮闘しています。それは神の御心に叶った意思決定ができるように奮闘しています。

そのために助けとなってくれるのがその名のとおり助け手である聖霊です。聖霊はリアルタイムに僕たちを導いてくれます。さらに同じように重要なのは聖書です。聖書は過去の書物ですが、今生きている僕たちを確実に正しい道に導いてくれるものです。それはバックミラーで後ろを確認するがごとく、聖書に登場する人物がどのように生きたか?というところからも知ることができます。

人生の一方通行の道

たとえば、人生の一方通行の道に入ってしまって出れなくなってしまった場合、どうすればいいでしょうか?そういう時聖書にはどう書かれているのだろう?聖書に登場する人物はどのように対応したのだろう?と聖書から教えてもらうこともできます。また祈りの中で聖霊が助けてくれることももちろんあります。

人生は車の運転ほど容易なものではないかもしれませんが、人生を生きるために必要なものは神様が備えてくださっていると信じています。

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