クレクレクリスチャン
昨日は、これまで生きてきた39年間はクリスチャンとしてのほほんとして生きてきたと書きました。表現を選ばずに書けば、平安、喜び、楽しみクレクレクリスチャンです。こういった御霊の実を求めることは一見間違いがないように思えます。しかし、態度が問題であることは明らかです。
なぜなら、まず求めるべきものは神の国と神の義であって、それは信仰の完成者であり導き手であり、命の源であるイエス様だからです。イエス様抜きにして恵みも平安もありません。
キリストのように生きるとは
しかし、僕はこの単純な問題の中に長くいたのです。キリストの足跡を歩む、キリストに従う、キリストのように生きるとはどういうことでしょうか。それは福音書を見ればあきからです。そして実際にイエス様に従って歩んだ使徒たちの生き方こそがクリスチャンの生き方です。
ともすれば、クリスチャンはイエス様の十字架によって罪が赦されたゆえに、キリスト者として歩む苦しみからも除外されていると思っているふしがあるのではないでしょうか。なぜなら、僕が39年間、そのように生きてきたからです。
霊的原則、パラドックス
実際は除外されていません。むしろ、キリストと共に歩む苦しみの中に喜びがあるのです。この霊的原則、パラドックスをパウロは見事にこのように表現しました。
コリント人への第二の手紙 6:9-10
人に知られていないようであるが、認められ、死にかかっているようであるが、見よ、生きており、懲らしめられているようであるが、殺されず、
悲しんでいるようであるが、常に喜んでおり、貧しいようであるが、多くの人を富ませ、何も持たないようであるが、すべての物を持っている。
僕はこれまできっと自分都合でイエス様と共にいたいと思っていただけなのでしょう。イエス様が共にいたいと思ってくださっている側面からは完全に拒絶していたのです。
詩篇23篇
昨日も書きましたが、この言葉が頭から離れません。「私と共に苦しみを共にしてほしい。」僕はイエス様と共に苦しむことを恐れません。なぜなら詩篇23篇の御言が真実であることを知っているからです。
詩篇 23:4
たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。あなたがわたしと共におられるからです。あなたのむちと、あなたのつえはわたしを慰めます。
最近よく聞く賛美はそのような歌詞でした。
When I walk
Through valleys deep
I won’t fear
‘Cause I know You’re with me
I know You’ll lead me
And when I walk
Throughout the fire
Like finest gold
My faith You’re refining
This will define me