1348_霊的な体も汚れていれば不快に感じるが前提がある

信じることによって与えられるもの

好きな御言にこのようなものがあります。これはイエス様の十字架の赦しがどういったもので、何をもたらすのかが明確に書かれています。

心はすすがれて良心のとがめを去り、からだは清い水で洗われ、まごころをもって信仰の確信に満たされつつ、みまえに近づこうではないか。
ヘブル人への手紙 10:22

キリスト教の罪の赦しとは、信じることによって与えられるものです。そして、その信仰には上記のような状態が約束されています。さらに、それは決して信じて、観念上のことで終わるではなく、実際に体験、体感できるものでもあります。

霊的な体も汚れていれば不快に感じる

もし、1日ですらお風呂に入らなかったが不快になります。布団に入って寝る事すらはばかれるでしょう。そのように心や良心、霊的な体も汚れていれば不快に感じるものです。しかし、その感じる感じないには前提があります。それはきれいであることを知っているということです。

もし、自分の体が汚くなっていても、自分の家がそれ以上に汚かったり、日常的に生活している空間が汚れていたら、自分の体の汚れやにおいにも気づかないし、不快すら覚えないでしょう。

神様の聖さに触れること

そのため、もし十字架の赦しを自分のものとして受け取るためには二つのことが必要だと思っています。

まずは、神様の聖さに触れることです。僕の場合、最初は礼拝によって神様の聖さに触れました。その次は個人的な祈りの中でです。神様が如何に聖いお方であるかを知った時、はじめて自分が我慢できないほど汚い存在であることがわかりました。

もしかしたら、ある人は神様の聖さに触れなくても自分は汚いと思っているかもしれません。しかし、それは肉において体験できているものにすぎないので、霊の領域で教える汚さには到底及びません。

イエス様の十字架を心から受け入れる

自分の霊的な汚さがわかればあとはイエス様の十字架を心から受け入れるだけです。それは決して行いによりません。ただ信仰によって、冒頭の御言のとおり、心、良心、霊の体の聖さに与ることができます。それは、肉体の体がお風呂に入ったらすっきりするように霊的な体にも実体験として経験できるものだと思っています。

心はすすがれて良心のとがめを去り、からだは清い水で洗われ、まごころをもって信仰の確信に満たされつつ、みまえに近づこうではないか。
ヘブル人への手紙 10:22

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