聖書にある信仰のある祈り
昨日に続き、イエス・キリストが与える平安について書きたいと思います。僕たちは日常的に神様に祈ります。それは、誰かのために祈ること、自分のために祈ることも含まれています。また、理性的な祈りもあれば、切なるうめきを伴うものや、涙を流すものもあります。祈りとは神様との会話、コミュニケーションともいわれています。それは、祈りこそが神様との個人的な関係の土台になるからだと思います。
聖書が教える祈りは、「信じたとおりになる」というものです。疑わずに祈ること、それが神が求めておられるものです。ただ本当に疑わずに祈ることはとても難しいものです。幼子のような純粋な心を持っていれば、信頼し安んじて神を信じることができるでしょう。また、神様との強固な関係が気づかれている神の器も「信じたとおりなる」という確信の祈りができる人だと思います。
聖書に登場した人たちの祈り①
ただし、世間の常識や自然の法則から外れたようなことを祈る時、心から信じれないことが往々にしてあります。また、どうしても、受け入れたくないことを受け入れなければならない時、僕たちは祈りを避けようとさえします。しかし、イエス・キリストは十字架にかかる前のゲッセマネで、「できることなら、この杯を取りのけてください。しかし、私の思いではなく、あなたの思いがなるように」と祈りを捧げました。
また、ダニエル書に登場する3人は、信仰ゆえに獅子の穴に投げ込まれる状況に面した時、「神は私たちを獅子の口からまもってくださいます。たとえ、そうでなくても、私は主を否定することはない」と宣言しました。
「神の御心がなりますように」、また自分の願いとは違い「たとえそうではなくても、」という祈りができる者へとなりたいと思いました。
聖書に登場した人たちの祈り②
一方で、詩篇や旧約聖書には、遠慮することなく、自分の思いを神の述べることが強調されたりしています。ダビデは神に自分の思いを隠すことなく述べていますし、子に恵まれなかったハンナは涙ながらに子が授かるように祈っています。そして、神は憐れみ、彼ら彼女の願いを聞いてくださったのです。
新約聖書にはこのように書かれています。
何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。
ピリピ 4:6-7
まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。
マタイ 6:33-34
共通しているのは「思い煩うな」ということです。僕たちはより低いレイヤーで思い悩んでいるのです。しかし、神に祈る時により高いレイヤーに引き上げられ、人知では到底はかり知ることのできない神の平安が与えられるのです。その時には、祈りが聞かれる・聞かれないの低いレイヤーではなく、神様が手に握りしてくださっている、神が万事を益としてくださるという確信が与えられ、安んじていられるのだと思います。
彼女は言った、「どうぞ、はしためにも、あなたの前に恵みを得させてください」。こうして、その女は去って食事し、その顔は、もはや悲しげではなくなった。
サムエル記上1:18
たとえ、そうでなくても、神の前に恵みを得るなら、その顔から悲しみは消え去り、神の平安がやってきます。