主の臨在
今日は2週間振りに教会へ行きました。それは新年早々、インフルエンザに罹患して体調不良が続いたため教会に行けていなかったためです。その間は、パソコンをテレビにつないでライブ配信で礼拝をしており、礼拝する恵み、魂の糧は頂いていました。
以前、ある人がライブ配信での礼拝には主の臨在はないと言っているのを聞きました。本当にそうでしょうか?僕はそうは思いません。主は一人で画面を通して礼拝する時も確かにご臨在くださいます。もちろん、それが教会に行った時に体験できる臨在とは違うものかもしれません。しかし、信仰をもって主の前に出る時に主はご臨在くださいます。
対面とライブ配信では決定的に違うこと
しかし、対面とライブ配信では決定的に違うことがあります。それは兄弟姉妹の交わりや共に祈ることはできないということです。僕は2週間ぶりに教会に行って、この二つの恵みを大いに感じました。兄弟姉妹、CSの子供たちと雑談をするだけでも心が満たされるのです。
年齢も趣味も全く違う血縁関係のない人同士が雑談をしてなぜ魂が恵まれるのでしょうか?それは主がそこにいてくださるからです。雑なたとえで恐縮ですが、もし売れっ子の本物の芸人がそこにいたらそこに笑いが起こるように、主がそこにおられたらそこは祝福に満ちた場所となるのです。
教会でしか味わえない恵み
また祈り合えることも幸いなことです。無教会主義といわれる主義があったり、教会は行かないがイエス様に対する信仰は持っているという人がいます。しかし、僕は決して一人で信仰生活を送れるほど強い人間じゃありません。だからこそ僕には教会が必要なのです。
年齢も趣味も全く違う血縁関係のない人同士が祈り合うことを主は喜んでくださるのです。これは教会でしか味わえない恵みです。
確かにそこに主がおられる
教会とは、ある人からすれば人間同士の集まりにすぎないと見えるかもしれません。しかし、信仰をもって、あるいは霊的な目をもって教会を見るのであれば、確かにそこに主がおられるというのを見ることができます。
悪魔の戦略はいつも同じです。
「教会は結局人間の集まり、弱さ、失敗、批判、憎しみ、罪だらけ。こんな醜いところに行く必要なんてないだろう。」
しかし、僕は言います。
「確かに肉の目でみればそうかもしれない。しかし、霊の目でみるなら、その中に確かに主は大いなる恵みと憐れみをもって共にいてくださる。それが教会なのだ」と。