0660_「もし、救われていなかったら?」という自問自答は魂に効く

もし救われていなかったら?

自分がどのようなところから救われたかを定期的に思い出すととても恵まれます。「もし、あの時救われていかなったら?」や「もし、あの時イエス・キリストに出会っていなかったら?」というように自問自答すると、今ある生活が絶対にないことが想像されます。

今与えられているものは、当たり前ではなく神の恵みでしかありません。にもかかわらず、人間はそれをよく忘れてしまうのです。往々にして身近にあるものこそありがたみを感じないものです。しかし、もしそれがなくなったならば、きっとその存在を痛感して歯噛みをするのでしょう。

身近なものこそに感謝が溢れる

まず、生きるためのインフラである空気や水や作物などは当たり前すぎてなかなか神に感謝することはありません。しかし、習慣的にしている食前の祈りはそれを思い起こさせてくれます。今、目の前にある食物に神の恵みが凝縮されています。

次に、個人的なことにも思いを馳せてみると恵まれます。僕の場合ですと17歳でイエス様に出会っていなかったらどんな生活を送っていただろうと思います。きっと浪人する元気もなかったでしょうし、当時の学力のままで入れる大学に適当に入っていたに違いありません。ということは、つまり、僕の人生の半分くらいを締めている「中国」というキーワードすらなくなってしまうのです。

古い自分のまま

適当に入れる大学に入って適当に出て適当に就活して、文句や不平不満を言いながら仕事をしていたに違いありません。そもそも、社会不適合者だったので、うまく仕事ができていたかもすらわかりません。

もしかしたら、人間関係で大きな問題を起こしたりして、周りからは嫌われていて、棘を触るような扱いを受けていたかもしれません。天国があることを体験しないまま生きているので、きっと刹那的で一時的な快楽ばかり追求して生きていたでしょう。

古い自分を知っているから

なぜそういったことが想像できるかというと、17歳までイエス様を知らない生き方がどんなであったかを知っているからです。思春期というのもあったかもしれませんが、僕はいつも不機嫌であったような気がします。テレビを見ても、誰かにあっても不平不満を言っていたように思います。基本的に愚痴属性が強かったからです。

しかし、イエス・キリストの大きな愛に圧倒された時、そのような自分を愛してくださっていることを知り、そして、このお方と共にいるなら、こんな自分自身が変えられるという確信を得たのです。

これからも

あれから、20年近くが経過します。僕は今でも多くの弱さや醜さを持っているので、変えられたいです。それがイエス様にならでいるからです。だから、イエス様がしてくださったことだけを振り返り感謝し、また前を向いて歩いていこうと思います。絶対に信仰があれば、変えてくださると信じます。

「義を追い求め、
主を尋ね求める者よ、わたしに聞け。
あなたがたの切り出された岩と、
あなたがたの掘り出された穴とを思いみよ。
イザヤ51:1

おっさん
■イエス様にはできないことはない

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