0367_クリスチャンじゃないほうがいい人が多い説

クリスチャンじゃないほうがいい人が多い説

「クリスチャンじゃないほうがいい人が多い説」というのが時々、耳に入ってきます。皆さんはどう思うでしょうか?そもそも「いい人」という言葉も曖昧な言葉だと思いますが、おそらくいい人と聞いて想起されるのは、誠実な人、優しい人、思いやりのある人、献身的な人、社会的な問題に取り組んでいる人、色々あると思います。

そもそも、「クリスチャンよりもいい人のほうが多い説」がある理由の一つとして、分類の方法が、クリスチャンor非クリスチャンの2択しかないからだと思います。クリスチャンはビフォー・アフターを証という形式で、人々にキリストが自分にどれだけ素晴らしいことをしてくださったかを語る働きがありますが、そこでは、救われる前の0と救われた後の1しかイメージされないため、2択の分類が当たり前になっているのだと感じています。

個人的には、かなり雑な考え方ですが、3つの段階があるのではないかと思っています。それは、肉体的獄屋、精神的獄屋、霊的獄屋からのそれぞれの解放です。

2つの獄屋

まず、肉体的獄屋は実際にその国の法律に則って、禁固刑や懲役刑を下された人たちがいるところです。刑務所や牢屋で過ごし、身体の自由を失った囚人です。そこから解放されるのに、キリストの救済は無関係です。その国の法律に従って、刑に服して、刑期が満ちるのを待つしかないのです。

次は精神的獄屋です。様々な悪習慣(ギャンブル中毒、アルコール中毒、薬物中毒、喫煙習慣など)、悪癖(散財、快楽主義など)、悪思考(不平不満、うらみそねみつらみなど)の中にいる人達です。ここから解放では、キリストの救済が関係しています。キリストの救いの力がこういった依存性のあるものから、解放してくださることが多くあります。

いい人とは?

問題になっている「いい人」というのは、こういった精神的獄屋からある程度解放されている人だと思います。上記で挙げたものは、基本的には依存性のあるものです。言い換えると、自分の力では、やめたくてもやめれないようなものです。

頭ではわかっているけど、「つい、○○○してしまう」というものです。もちろん、喫煙習慣がある人にも「いい人」はいると思います。しかし、相対的に精神的獄屋の各項目の依存度が低い人は、全体的に安定した、一貫性のある人格や資質を持っていて、いい人と思われる可能性が高くなるのではないかと思っています。

最も重要な解放

最後は、霊的獄屋からの解放です。これは、罪からの解放です。ここでの罪とは肉体的獄屋や精神的獄屋に閉じ込められるような狭義のものではありません。「的外れ」な生き方であり、神と共に歩まない、神に背を向けて生きている生き方自体の罪なのです。つまり、「俺は神様なしで生きていけるっつーの!」というところの罪です。

断絶されていた神様との関係が回復する時に、霊的な解放を体感するのです。それは、川辺にある木がいつも清らかな水を吸い込んで、枯れることなく人々に美味しい果実を実らすような生き方です。

確かに、精神的獄屋からある程度解放されている人たちに「いい人」は多いでしょう。しかし、「恵まれている人」かどうかはわかりません。主に愛されて共に生きる人は、魂が恵まれている人であり、必ず、そこから、主にあって良い実が結ばれ、周りにも好影響を与えることができるののだと信じています!

おっさん
■非クリスチャンにも「いい人」が多いのは事実だろう
■それは精神的獄屋からある程度解放されているからだと思う
■ただクリスチャンは主の恵みの中におかれており、「恵まれた人」たちである
■魂が恵まれている人はきっと周りにも好影響を与えることができるだろう

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