定量的に評価されるのが当たり前
人間は生まれてからしばらくするとまもなく数字で評価されるようになります。小学校には成績表があり、社会人には人事評価があります。例えば、成績表には学習目標が書いてあって、それに対する達成度合いによって五段階評価などがなされています。こういった評価があまり嬉しくない理由の一つとして、他人が勝手に決めた一律の目標で定量的に評価されるということだと思います。
これが、例えば、自分が設けた目標ですと、全く捉え方が変わってきます。短期的、中期的、長期的に自分が目指したいところ、特にありたい姿が明確であると、体が勝手にそこに向かって全力で取り組み始めます。そして、日々の微差の積み重ねが絶対差になり、必ず、目標に近づき変化が体感できます。例えば、仮に達成できなかったとしても、来月はどのような仕組みにすれば自分が達成できるようになるのか、など試行錯誤を実行することもできます。
具体的な目標
こういった個人的な目標はいいのですが、最近よく感じていることは、クリスチャンとして成長するためのロードマップが明確にないということです。抽象的、かつ教義的に言えば、イエス・キリストを心に受け入れて、洗礼を受けて、聖霊に満たされて、キリストと共に生きていくのがクリスチャンのロードマップです。
ただ、クリスチャンとして、キリストの似姿に変わっていく過程で、御霊の実と言われている、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制の各種項目において、自分がどの程度の実を結べているかほとんどわかりません。個人的には、こういった徳を列挙するだけでなく、もっと、具体的にロードマップを示してくれると助かります。例えば、喜びや寛容などの性質ですとこのような感じです。
- 「日常的に不本意なことがことが起こっても、すぐに感謝して受け入れられている」
- 「日常的に不本意なことが起こっても、その時は嫌な気持ちになるが、個人的な祈りと聖書によって、受け入れることができる」
- 「日常的に不本意なことが起こると、しばらくひきづってしまい、教会に行くと心が整えられ、受け入れることができる」
- 「日常的に不本意なことが起こると、全く受け入れらずに、腹立たしい気持ちがしばらく続く」
クリスチャンの目標
クリスチャンの目標は、布教活動だけでなく、キリストの似姿に近づき、さらにキリストの栄光へと変えられることを目指していると思います。キリストについて知りたいならば、聖書を読み、または個人的な祈りの中でイエス様ご自身個人的に知るしかありません。ただ、成熟したクリスチャンとはどういった状態なのかをもっと具体的な目標で定性的に自分で確認できるといいなと思いました。