0961_ワーシップソング=人前で賛美を導くという図式が当たり前になっている

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ワーシップソングを導入したい理由

先日ある人からとある教会の若い信徒さんがややこしいことを言っていてどうしたものかという話を聞きました。話はこのようなものでした。その教会は福音派の教会で礼拝では主に新聖歌や賛美歌21から賛美されているようです。ある信徒さんがもっとワーシップを賛美させてほしいという要望があったそうです。

僕はそれを聞いた時別にいいのではないかと思いました。ただ話を聞いていくと少しややこしそうです。どうもその信徒さんは自分が前に立ってワーシップを賛美したいというのです。それも百歩譲って問題ないかなと思ったのですが、問題は礼拝は年齢層の幅が広いということです。

配慮やPTP
Oは大切

まず誰にとっても初耳の賛美歌は難しいです。ともすれば覚えるために聞いて終わってしまう可能性があります。それは礼拝にとってはできるだけ避けたいことです。特にお年寄りの方にとってはワーシップソング自体がなじみがなく難しい場合があるので、下手に伝統的な礼拝をしているところでワーシップソングを無理に導入するのは周到な準備と調整が必要だと思いました。

僕は普通の礼拝じゃなくてユース集会とか中高生クラスの先生をやって、そこでやったらいいんじゃないの?とアドバイスしてみたら、どうもその人はそういった奉仕はやりたくないというのでやめたそうでした。

自分はどうか?

僕はその話を聞いた時に自分も気をつけないと思いました。それはワーシップソング=人前で賛美を導くという図式が当たり前になっていることにです。賛美は人に対してするものではありません。神に対してするものです。しかし、もし礼拝の中で人前で歌いたいとなると世の中のカラオケボックスで歌われる世俗の歌よりたちが悪いです。なぜなら、それは神の栄光を奪うことになりかねないからです。

その話を聞いて僕は深く内省しました。僕はどれほど一人の時に主を賛美しているだろうかと。礼拝以外でYoutubeで賛美を聴くことはしていたとしても、自分の声だけで誰もいないところでどれだけ主に賛美を捧げているだろうかと思いました。

以前ブログにも書きましたが、僕は日常生活の中での礼拝を建て上げ直すことに注力しています。Youtubeで説教を聴くときも、きちんと正座して声を出して賛美して主の前に姿勢も心も魂も自分を整えるということです。

一人賛美時間

そのことを聞いて以来、僕はお風呂で一人で賛美をするようにしました。誰もいないところで主だけに集中して賛美します。もし、僕が一人の時に賛美もしないで、ワーシップリードをしたいなどと言い出したら、そうとう危険な状態だと思います。栄光は主のもの、恥は私のものを忘れずに。

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