1559_クリスチャン症候群という病

そう思っていると思っているだけ

自分がそう思っていると思っていても実際は全く思っていないということがあると思います。たとえば、僕は霊においてはひどく肉を嫌悪していると思っていますが、実際は実はそうではないということを知ることがあります。

なぜなら、本当に思っていることは必ず行動に現れるものだからです。僕が心の中で、肉を嫌悪していると思っていても、行動では肉を愛でているということがあるのです。

本当にそうしたいのか?

先日友人と会った時、このような話をしていました。彼は飲食店で板前をしています。彼の従業員の方が頻繁に僕の友人に「自殺したい」と言ってくるようなのです。彼はずっとなだめるように優しく対応していましたが、あまりにもしつこく「自殺したい」と言ってくるので、ある時、対応を変えたそうです。

彼は意外にも吹っ切って「じゃあ、どうやって自殺したいの?」と聞き返したそうです。そうるすと、彼の従業員は言葉に詰まり、それ以降言ってこなくなったそうです。ようは自殺する気もないのに自殺したいと言っていたのです。

実際は全く思っていない場合もある

こういった内容は非常にセンシティブであり、対応はケースバイケース、個別的であるべきです。ですので僕の友人の対応がどうだったかは何とも言えません。もろ刃の剣だからです。しかし、今回の場合は、冒頭の言葉に戻るのです。

自分がそう思っていると思っていても実際は全く思っていないということがある。

クリスチャンとしてのあるべき姿

このことを知る時に、自分が本当に何を願っているのか?何を大切にしたいのか?特に何をしたいのか?が明確になります。ようは、やりたいと思っていることが自分自身なのです。

人間はうまく取り繕うことができます。言葉で隠すこともできます。それは時に自分自身をも自分をあるべき自分に取り繕うことさえできます。あるクリスチャンはこのような状態をクリスチャン症候群と言っていました。

ようはクリスチャンはこうあるべきだから自分もこうだと、クリスチャンとしての理想のあるべき姿にすり替えてしまうのです。

自分は何をしたか?

このような問いによって自分の本当の姿が明らかになります。そして、その時に初めてイエス様の十字架が必要だと本当にわかるようになります。

「今日一日の自由に使える時間を使って自分は何をしたか?」

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