この世にあっては悩みがある
クリスチャンとして、こんなことを書くと怒られそうですが、僕は時々今すぐにでも天国に行きたいと思うことがあります。その理由の一つとしては、この世にあっては悩みがあるからです。歳を取るにつれて自分が経験として知っていた悩みよりも様々な種類の悩みがあることを知りました。
自分が若かった頃は自分だけの悩みでした。また自分が若かった頃は比較的自分でコントロール可能なものが多くありました。実際面においても、信仰面においてもようは自分次第でなんとかなるものばかりだったのです。
将来に対する漠然とした不安
しかし、年を取るにつれてそんなことばかりではないと知るようになりました。それを知った時にますます自分の無力さを知りました。また若かった頃は今の若さが永遠に続くとでも思っていましたが、今は将来に対する漠然とした不安も持つようになりました。
それは「世間一般では当たり前だ。何を甘いことを言っているのだ。」と言われると思います。しかし、だからこそ、僕は時にもういっそのこと早く天国に行きたいと思ってしまうことがあります。
食べるのも主のため
次に、日々生きる中で自分のために飲み食いして楽しいことをして何の意味があるのか?と思うことがあります。それは終局、天国にもっていくことはできないし、信仰の面から言えば全く無価値だとわかっていても肉が活性化されることに嫌気がさすのです。建前では「食べるのも主のため、飲むのも主のため」だと頭ではわかっています。
ローマ人への手紙 14:6
日を重んじる者は、主のために重んじる。また食べる者も主のために食べる。神に感謝して食べるからである。食べない者も主のために食べない。そして、神に感謝する。
しかし、それを知っているのと実際に思ってやっているのとでは全く違います。僕は結局は自分のために飲み食いしているのを知っています。
主のためにしたこと
もし短絡的に考えた場合、主のために献身した人であればまるまる1日を主のために使うことができるので、その人が過ごした1日は天国までも永遠に残ります。確かに主のためにしたことだけが永遠に残るからです。もちろん、僕自身も遣わされているところで精いっぱい主の為に生きていれば問題ありません。
自分が一日主のために何ができているのか?もう一度主の前に出て教えて頂きたいと思います。