1399_機械学習の学問を信仰生活に応用することは可能か?

AIの技術

最近、仕事の新規プロジェクトでAIの技術に触れることがありました。AIは人工知能のことで明確な定義はないのですが、おおむね、「機械やプログラムが人間の知能を有するもの」とされるようです。昔のAIはAという条件でBが入力されたらCが出力という、いわゆる、ルールベースの簡単な知能でした。

しかし、インターネットの普及にともないデータが大量に集められるようになったこと、GPUの計算能力が上がったこと、さらにクラウドサービスにより特別スペックが高いマシンが手元になくても使えるようになったことにより一気にAI技術が進歩しました。

機械学習

ここ数十年で進歩した領域とは機械学習のことです。機械学習の中にディープラーニングというものがあり、これにより、機械自身が学習していくことができるようになりました。それまでは、技術者が周到に準備した学習素材を機会に学習させる必要があり、このデータの前処理の異常なほどの時間がかかっていました。

機械の学習成果はこの学習素材にかかっており、間違って学習したり、過学習により、望ましい結果が得られないことも多くありました。そのため高度なチューニング技術も必要とされていたようです。

完全に応用できない理由①

それがディープラーニングという人間の頭脳を模したニューラルネットワークという仕組みを導入することにより、機械自身が大量の簡単なデータを入力されることにより学習できるようになりました。僕はこの学問化された機械が学習するプロセスを自分自身の信仰の成長に生かせないかと考えました。なぜなら、機械は律儀に学習して成果を出していくからです。

ただ、前提条件がいくつかあります。一つ目は機械は感情をもっていないということです。機械が感情を持っているようにふるまうことがありますが、それは感情をもっているからではなくて、そうふるまうように学習したからにすぎません。一方、人間は多くの場合、感情で動くものです。だからこそ、頭ではわかっていても、理性ではわかっていても、そうできないという状況が生まれます。だから人間は不合理的な行動をすることがあります。

完全に応用できない理由②

二つ目の違いは人間は霊的な存在であるということです。機械には霊的な存在ではありませんが、人間は霊的な存在です。また機械は罪をもっていませんが、人間は原罪をもっています。これが人間が歴史から学んでいるようで全く学んでいない証拠です。

どれだけ知的に成長できたとしても、罪から解放されておらず、かつ霊的にも成長しなければ人間は永遠に聖書に学び、神の御心にかなった正しい行動をすることは決してできません。

つまり、機械学習の学問を信仰生活に少しは適用できますが、最終的には聖霊の助けがなければ正しい生き方、判断、行動はできないというのが結論です。

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