1520_信仰の真価

クリスチャンごっこ

先日僕は自分の信仰生活が「クリスチャンごっこ」にすぎないのではないかと書きました。

1508_結局僕がやっていることは「クリスチャンごっこ」に過ぎないのではないか?

このような言い方をすると、きっと真剣に信仰生活を送っている人は不快に思われることでしょう。僕は決して〇〇のような信仰の人は結局「クリスチャンごっこ」なのだと言いたいわけではなく、ただ僕自身を指して言っているだけです。

信仰の真価

クリスチャン信仰の真価は試練の時にわかります。もし試練がなければ自分がどれほど主により頼んでいるかわかりません。たとえ、自分はできている、自分は信心深い、自分は大丈夫だと思っていても、試練というテストで合格しなければ、それはただ単に自分が信仰があると思い込んでいたにすぎないとわかります。

順調な時は主に対する感謝が満ち溢れるでしょう。賛美も難しくありません。少しの苦難でもきっと主により頼むことができるでしょう。では、非常に大きな苦難がやってきた時どうなるでしょう。「主よ、感謝します」と言えるのか、それとも、「主よ、なぜですか?」と不平不満がでるか、で信仰の真価が明らかになります。

御言が必ず力を与えてくれる

そして、サタンはこの時とばかりに不信仰の根を植え付けようとしてきます。「神様がいるのに、なぜお前はこんなに苦しいんだ?」、「神様がいるなら助けてくれるだろう。でも沈黙しているじゃないか?」とささやいてきます。そして、確かに試練の時に隠されていたものが明らかになることもあります。それは罪であったり、自己中心性であったり、高慢であったり、悪癖であったりするかもしれません。

その時に、キリストの十字架に立ち返らずにサタンの言葉や自身の駄目なところを見てしまうと完全にやられてしまいます。魂が弱ることは避けられないかもしれません。しかし、弱っても御言が必ず力を与えてくださいます。

御言の武器

僕は今試練の中にいます。しかし、この御言を信じています。御言の武器によって不信仰を無力化します。

このことはわたしにはノアの時のようだ。
わたしはノアの洪水を、
再び地にあふれさせないと誓ったが、
そのように、わたしは再びあなたを怒らない、
再びあなたを責めないと誓った。
山は移り、丘は動いても、
わがいつくしみはあなたから移ることなく、
平安を与えるわが契約は動くことがない」と
あなたをあわれまれる主は言われる。
イザヤ54:9-10

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