1521_きよめとはどういうものなのか?

変えられ続ける

このブログではキリストにあって変えられ続けることを信じて自身の信仰生活の試行錯誤を書いてきました。人が変わる前提として書いてきたことは、人は主によって自覚させられない限り自身が変わらないといけないということすら気づけないということです。

もし僕がいくら変わりたいと強く願ってあれこれやったとしても、主を差し置くならばそれはただの自己啓発であり、人間の努力でありキリスト抜きの信仰生活になってしまいます。僕はこの過程を通ったことがあり、また油断すればそうしてしまうという弱さすらもっています。

自覚させられること

しかし、主を見上げて「変わりたい」と願うならば、主は少しずつ自覚させてくださいます。聖書の御言や祈りを通しての場合もあります。しかし僕の経験上、だいたい、人と人との関係や人生の様々な状況や環境の中で自覚させられることのほうが多いと思っています。これは主の導きは人それぞれなので個人差はあるかもしれません。

職場、教会、家庭、地域、あるいは自身の問題を起因として教えられることが少なくありませんでした。

肉においてはいいことではない

また、いくら変わりたいと願っていても、いざ自覚させられるといやだと思うのもまた人間です。自覚させられるのは正直いいことではありません。もちろん、こう書くのは、肉においてはいいことではないということです。霊においては義と平和と聖霊における喜びです。

だから、もし肉において信仰生活を歩むならば自分の義を立てたほうが、いっそのこと楽です。それが自分の少しばかりか支えてくれるからです。しかし、主にある義によって生きることを望むのであれば、肉における痛み、苦しみは避けては通れません。それが自覚させられるということだと僕は認識しています。

きよめとは

きよめとはどういうものでしょうか?僕は第一に、自身の愚かさ、状況の困難さなどから強制的に自身の変えられないといけないところが自覚させられるところから始まると思っています。自覚することによって自身の無力さ、罪、愚かさ、弱さ、不信仰を教えられます。

もし、そこで打ちのめされるなら、きよめはおこりません。しかし、そこで徹底的にへりくだり、悔い改め、また主の御言に立ち、祈り続けるならば本当に主にあるきよめがその人自身に起こると僕は信じています。

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