人は変われるか変われないか
人は変われるか変われないかの問いに関してはこのように理解しています。「ある程度までは人間の努力で変えられる。しかし、人間の罪の影響の範囲内にある者に関してはイエス・キリストの十字架によってでしか変えられない。」
前者の影響の範囲としては、その人の能力のことです。この能力には勉強ができるとか運動ができるとかだけではなくて、道徳的なことも含まれます。勉強や運動に関して言えば適材適所を前提とした上で、自分の得意とする分野に集中して時間やお金や努力を投資するならば人は能力的に大きな成長を遂げることができると思います。
道徳的なことに関しても知識を得て、言語によってある程度まで自分を制御することができます。これは人間がもっている元来の力で対応することができます。二―バーの祈りも非常に参考になります。
罪の影響の範囲にあるもの
しかし、罪の影響の範囲にあるものは人間の努力のいかんでどうにかすることはできません。自分だけが知っている自分の闇の部分や今は環境に守られてはいるが過酷な状況に置かれた時に暴露される人間の悪い性質などは、人間の努力でできる範囲を超えていると思います。
もしかしたら「いや、私には本当に闇の部分なんてないんです。」という方もいらっしゃるかもしれませんが、それに気づくことすらできなくしていることこそ罪の影響の範囲内におかれていることを明らかにしています。
もし、罪がないと言うなら、それは自分を欺くことであって、真理はわたしたちのうちにない。
ヨハネの手紙1:8
そもそも願望があるかどうか?
変えられることと変えられないことを明確にしたうえで、罪の影響の範囲にある自分が変えられるためにはどうすればいいのでしょうか?それは過去にも書いたことがありあすが、下記2点を日々意識して祈り求めていかないと変えられないと考えています。
- キリストにあって変わりたいという願望がなければ何も変わらない
- キリストにあって自覚させられない限り、変わりたいという願望すらおこらないこともある
本気かどうか?
今日はさらに一つ付け加えたいと思います。それは本当に変わりたいと思っているのか?ということです。まぁ長期的に見えていつか変えられたらいいなと考えている場合はおそらく変わらないと思います。
なぜなら、変えられたいと本気で願っている人は寝ても覚めても、時々刻々とそのことを考えて主に助けを求めるからです。そのような人がキリストにあって変えられていくのだと思っています。僕自身はまだまだその途上にいますが、主が必ずしてくださると信じて求めて生きたいと思っています。