1359_異言で祈るということに消極的になった時のこと

異言は当たり前という環境

昨日は異言の祈りについて少し書きました。今日も続けます。僕はペンテコステ派の教会で救われたので異言は当たり前という環境で育ちました。自身が小さかった頃は何も思わなかったのですが、理性が発達してくると「これはなかなかパンチのある現象だ」と思うようになりました。

正直、人を見て「なんかわざとらしいな」と思ってしまうこともありました。しかし、それ以上に、すべての人ではないですが、異言で祈る人たちが一貫性のある本物の信仰生活をしていたので、確かに異言は存在するものだとも思っていました。

異言で祈るということに消極的

しかし、他教派との出会いもあり、異言が必ずしもすべてのキリスト教会で語られているわけではないと知り、自身の異言に対する態度に変化が現れるようになりました。特に異言という現象が誰かを躓かせているのではないかと思うようになったのです。その時は人を見て、他人に対してはメリットよりもデメリットのほうが大きいと思ったのです。

それから、いつしかペンテコステ派の教会に所属していた時から異言で祈るということに消極的になった時がありました。僕は以前から教会の裏山に一人で行って数時間も祈るというようなことをしていましたが、そこでも異言の祈りはしていませんでした。それでも、数時間イエス様を求める中で、僕の霊は実を結び、神さまからの語りかけを受け、霊における御言の宣言で魂は非常に恵まれていたのです。

しかし、あることがきっかけで霊的スランプに陥りました。どのように祈っていいのかわからなくなってしまったのです。その時の僕の霊的な状況は、荒野、枯れた地、焼けた砂、不毛地帯となっていました。祈っても霊的に突破できなかったのです。何かに鎖につながれているような感覚で解放されていなかったのです。

頑なな心を神様の前に開いた時

そこで僕の魂は追い込まれてしまって、再度、異言の祈りを求めるようになりました。その時の心情はこのようなものでした。

「僕はただイエス様との深い交わりがしたい。もし、それに異言の祈りが必要なんだったら僕は異言の祈りをしたい。」

異言に対する拒否反応はなくなりました。厳密に言えばそんなことをゆっている場合じゃなくなったのです。もし初めの愛、イエス様との深い交わりに帰れるのであればなんでも受け入れたかったのです。そのように自分の頑なな心を神様の前に開いた時に解放されるのを感じました。

自分の信仰のバランス

その出来事から数年経ちますが、今は僕は知性で祈るとともに異言でも祈ります。パブリックな環境では知性の祈り一本です。それは人を躓かせないためです。しかし、プライベートな空間、お風呂、部屋の中、歩いている時などは異言で祈ります。

今はそれによって自分の信仰のバランスが取れていると感じています。今は神様を見て、異言の祈りのデメリットよりもメリットのほうが圧倒的に大きいと思っています。

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