赤ちゃんは生まれた時点で人間としては完全
子供の成長を見ていて学ばされることが多くあります。その一つは先日も書いたことです。赤ちゃんは生まれた時点で人間としては完全ですが、背丈も伸び知識も知恵もつき成熟した人間を目指して成長します。それと同じようにクリスチャンもイエス様の十字架の血潮によって罪が赦されて神様と和解し、関係は完全に回復しました。しかし、それで決して終わりではありません。
その時点ではクリスチャンとしては完全に赤ちゃんです。自分を捨てて十字架を背負って歩んでいくことによって成長していきます。具体的には日常生活において、神を第一にしたり、神様の前にへりくだったり、主の前に犠牲を捧げることを一つ一つ学んでいかなければなりません。
イエス様の似姿に変えられる望み
それは赤ちゃんのクリスチャンにとっては簡単なことではありません。なぜなら、人は誰でも自分が大事だからです。自分を捨てるということは自分のお金や時間など人生における資源を主にお捧げすることも含まれます。自分のやりたいことよりも主がなされたいことに耳を傾けて実行できる人こそが大人のクリスチャンなのだと思います。
そして、主と共に歩み続けたあかつきには、いよいよイエス様の似姿に変えられる望みもっています。
今しか見ていない
クリスチャンとして成長する以外にも、子どもを見ていて思ったことがありました。それは、「こどもは今しか見ておらず、部分的なところしか見れていない」ということです。子供は貨物列車が見るのが好きで、よく貨物列車が見れる公園に連れていっています。
しかし、貨物列車は時刻表がないのでいつ走っているかはわかりません。そこで嫁さんが毎回見るたびに曜日と時間をメモしておくことによって、いつ貨物列車が通るのかを事前に予測できるようにしてくれました。
僕はこれをやりたいんだ
そして、ある日、子どもが「貨物列車見たい」というので公園に行こうとなりました。ちょうどいい時間帯に家を出ようとします。しかし、子どもは別のことに関心がいってしまって、外に行きたくないというのです。子供にとってのベストはめったに見れない貨物列車を見ることです。しかし、子どもはそんな全体的なことは把握できていないし、何より今関心があることに目がいってしまうのです。
この姿を見た時に自分も同じだと思いました。僕は確かに多くの場合、今しか見ておらず、部分的なところしか見れていません。しかし、イエス様はすべてをご存じで全体を把握しておられます。その状態で「主がこうしなさい」とおっしゃることのほうが確実に決まっています。なのに、時に肉々しい僕は「僕はこれをやりたいんだ」と言いたくなることがあると思ったのです。